クライエントさんが自らの心に負った傷や、その痛みを語るとき、なかなか言葉を紡ぎ出すことはできなくて、ただただ涙ばかりが流れることがある。
カウンセラーとしては、まず、その言葉にならない気持ちが涙となって流れたことを大切にしたい。
「ずっと流れたかった涙だと思うので、そのまま流させてあげてください」
そう言葉にして伝えて、涙に十分時間をあげる。
そうして待っていると、自然とクライエントさんが言葉を紡ぎ出せることもあれば、時に、その涙に“解説”が必要なこともある。
例えば、
「どうして涙が出るのかわからない」
「なんで、これくらいのことで泣いてしまうんだろう」
と、クライエントさんが、自分の涙に少し否定的な感情を持っているときだ。
そんなときは、涙の理由を改めてクライエントさんに尋ねてみるのも一つだが、カウンセラーが自分なりの理解で、“涙の解説”をするのもいいと思う。
「お母さんの振り向いてもらおうと思って、一生懸命いい子でいた。でも、お母さんは病弱な弟のことばかり気にかけていた。ずっと、こっちを向いてほしかった。そして、ただ、お母さんに、いい子にしていてくれてありがとうと、笑ってほしかった。そんな涙ではないでしょうか」
そう伝えると、クライエントさんがハンカチで目元を抑えたまま、何度も頷いてくれることがある。
クライエントさんが戸惑ってしまう体験に、カウンセラーがこんなふうに解説をつけることで、あぁ、そうだったなぁと受け取ってもらえる。そして、それから先は、クライエントさんが自分の体験を解説できるようになる。
カウンセラーの解説は、あくまでその呼び水であり、参照例に過ぎない。
こうした言葉は、クライエントさんの語りを聴く中で、自然とカウンセラーの中に醸成されていくものである。
けれど、たまにはカウンセラーも、自分の体験に形を与えてくれる言葉に触れることが必要だ。
以前、こんな記事を書いた。
今日は、宮部みゆきさんの小説『この世の春』からのセリフを紹介したい。
(以下、ネタバレあり)
この小説は、男児への性暴力と、そのトラウマが引き起こした悲劇、性暴力の事実から目をそらさず、痛みに寄り添う人たちの強さと優しさが、時代物というフィクションの中で描かれた作品だ。
幼少期に実父から性暴力を受けた。その恥と恐怖に満ちた体験を、若い藩主が告白するきっかけとなったのは、彼のそばに仕える女性が、自らの心の傷を打ち明けたことだった。
彼女は、自身が姑から受けた仕打ちを振り返ってこう語った。
「当時のことを思い出すと、わたくしは今でも恐ろしく、恥ずかしく、身の置き所がないように感じます。わたくしの何がいけなかったのかと自問自答するときもあれば、わたくしは何も悪いことなどしていないと、身が震えるような怒りを覚えることもございます」
「こんな仕打ちを受けるのは、わたくしに至らぬところがあるからだ。そう思うと、疼くのは心の方でございました。打たれ、叩かれ、蹴られることが重なると、その傷の痛みよりも、心をえぐられる痛みの方が強くなります。しかもそちらは、日が経っても癒えません。身体の痣は消えても、心の痣はむしろ濃くなってゆくのでございます」
「多紀(この女性の名)の心には、今もその痣が残ってございます。己の目で心を覗けば、そこに見えます。見えれば、痛みも蘇ります。傷の痛みではなく、心が縮こまってゆく痛み。誰にも打ち明けることができず、どこにも逃れ場所を見出すことのできない悲しみが、己の心を蝕んでいく音が聞こえて参ります」
クライエントさんがしている体験って、こういうことだ。
自分が聴いている体験って、こういうことだ。
自分ではない誰かが、“自分の体験を解説してくれる言葉”に出会うと、なんだかまた少し、自分の中に、クライエントさんの体験を受け取る心の余裕ができるような気がする。