暴力や暴言などではないのに、なぜか力を奪われたり、自分の行動が正しかったどうかと不安にさせられるような言葉って、ありませんか。
今日は、そんな体験に関する記事を書いてみたいと思います。
先日、購読しているメルマガでこんな言葉を目にしました。
「人を助けようとすることで、自分の主体性や自己価値などが生まれてくる」
「人と繋がろうとする力、助けたいと思う力を育むほうが、人は生き生きとしてくる」
この文章を読んで、前々から感じていた違和感が、ストンと腑に落ちた感じがしました。
もうだいぶ前のことですが、職場を改善するためのアイデアを書面にまとめて、同僚に渡したとき、こんなことを言われたのです。
「ここまでさせてしまったなんて、申し訳ないね」
私の頭の中には「?」が飛び交いました。
日頃から、同僚がこぼす愚痴をよく耳にしていたので、改善策を提示したつもりだったのですが、感謝されるわけでも批判されるわけでもなく、一緒に検討するわけでもなく、謝罪されたのです。
そのアイデアは、結局、その同僚の退職後に採用されました。
しかし当時は、思わず、自分が何か変なことをしてしまったのかと、考えてしまいました。
同僚に限らず、「日本人は感謝して受け取る」ことが苦手なのかもしれません。
でも、それは受け取られなかった側の心に、痛みとも傷ともつかないような、もやもやとした感覚を残します。
そして、このもやもやの理由づけをするために、「自分が余計なことをしてしまったんだな」と考えてしまうのです。
しかし、最初に紹介した言葉を目にしたときに、そのもやもやがすーっと消えていくような感じがしました。
あれは、職場の困りごとを解消したいという、自分の中の「助けたいと思う力」「主体性や自己価値の源泉」だったんだということ。
そして、それを受け取ってもらえなかったことで、心が傷ついていたのだということです。
関係性における暴力には、ハラスメントやDVといった名前がついているものもありますが、このような「(申し訳ないと言ったり、遠慮したりして)受け取らない」「応えない」「なかったことにする」といった目に見えない形で生まれる、小さな傷つきも決して見逃せないような気がしています。
このように、一見それとはわからない形で傷つきを体験すると、おそらく心に違和感が残り続けるはずです。
「なんか引っかかっている」と、クライエントさんもよく表現してくれますが、その違和感に耳を傾けることは、とても大切です。
その違和感が、自分でもはっきりと意識していなかった心の傷に、私たちを導き、その傷を癒すきっかけを与えてくれるからです。
いつまでも、昔のことにとらわれていて、みっともないなんて思う必要はありません。
とらわれるには、とらわれるだけの「心の理由」があるのです。