カウンセリングでは、他にもいろいろなことをしているのですが、1つ大きなこととして、この「見えていないものに光を当てる」という作業があります。
カウンセリングオフィスの中にいると、世の中にある「盲点」がたくさん見えてきます。
誰かの心が傷ついても、誰かの努力が踏みにじられても、誰かの思いが無視されても、
「そんなつもりはなかった」
という一言で片付けられてしまう。
傷ついたのも、努力が無に帰されたのも、思いが形にならなかったのもすべて、
「あなたがそうだと受け取ったからでしょう」
と、痛みを痛みとしてみることなく、加害を加害をして受け入れずに、踏ん反り返る組織や社会、権力者というものが存在しています。
しかし、それは確かに痛みであり、嘆きであり、悲しみであると、誰かが認めなくてはなりません。
痛みや嘆きや悲しみは、それに目を止め、耳を傾ける人がいて初めて、この世の中に居場所を持つからです。
もちろん、痛みや嘆きや悲しみを、自分のこととして抱え続けられる人もいますが、そうした強さを持つ人はごく少数で、自分の痛みや嘆きや悲しみが、誰の目にも映らないとき、多くの人がするのは、自分を疑うことです。
「こんなふうに感じる自分がおかしい」
と、自分の痛みを殺し、嘆きを抑え込み、悲しみを消そうとするのです。
カウンセリングの場では、こうした「なきもの」にされた傷に光を当てます。
それは、暴き立て、晒すような光ではなく、確かにそれがあったのだと、認識し、あたため、癒すための光です。
これは、カウンセラーでなくとも、弁護士や警察、記者などにもできることかもしれません。
傷を認め、癒すことは、決して当たり前のことではないと、カウンセリングをしていると実感します。
私たちが、どれだけの痛みから目を背け、否定し、無視し、見て見ぬふりをしてきたのか。
自分の人生も含めて、その償いをしているように感じることさえあります。
今まで誰の目にも映らなかった傷。
今まで誰の耳にも届かなかった声。
今まで誰にも手を当ててもらえなかった場所。
そうしたものに触れる生業ですから、決して華々しくなくてよいと思っています。
それでも、私とクライエントさんだけは、この場で起こることがかけがえのないものだとわかっている。
それだけで、この場所が存在する意味があり、これからも続けていく理由があるのです。