「ありのままの自分を好きになろう」
という謳い文句は耳に心地よいものかもしれない。
しかし、自分のすべてをさらけ出す姿というのは、とても無防備で、傷つくリスクは計り知れない。
だから、人の心には、防衛という仕組みが備わっている。
例えば、
「うつ病で治療中であることを、人に知られたくない」
これも、人の心が作る防衛の一つだ。
恥を研究する心理学者のBrene Brownは恥を隠さず、オープンに語ろうと言う。
恥は、孤立を生み出す感情だからだ。
恥を乗り越えて、恥について語り、その痛みを受け入れ、寄り添う。
それが実現したら、どんなに素晴らしいだろう。
しかし、こうした研究知見に、世の中が追いついているかといえば、まったくそうではないのも事実だ。
恥じていること、自分の弱みなどを見せたら、どんな目に遭うかわからない。
そんな世界で生きているからこそ、私たちの心には「自分を守るための防衛というシステム」が備わっている。
だが、心理療法の世界では、「防衛は手放すべきものだ」という治療原則がある。
なかなか防衛を手放せないクライエントに出会うと、カウンセラーは自分の力量不足のためかと不安になり、
「このクライエントはまだカウンセリングを受ける準備が整っていない」
などと、心の中でクライエントに責任をなすりつけてしまうことさえある。
それくらい、カウンセラーの頭は「防衛は取り去るべきもの」という考えがインプットされている。
しかし、防衛は「自分を守るためのシステム」だ。
自分を取り巻く環境が、他者と取り結んでいる関係が、自分が自分と取り結んでいる関係が、十分に安全とは感じられない以上、防衛を手放してはならない。
クライエントが、そう感じるのはもっともなことだ。
「防衛を下げる」くらいのことはできても、それを取り去ることは容易ではない。
そこで、クライエントと一緒に、防衛がなぜ必要なのかということを考えてみるのがいいと思う。
日本の心理学者の鑪幹八郎は、「恥に対する防衛の一つに意地がある」と言った。
意地。
例えば、うつ病と闘っている母親も、家族の帰宅時間には何とか起き上がり、夕食を作っている。
「無理せずに休んでいたら」
と、カウンセラーは言いたくなるかもしれない。
しかし、「家のこともろくにできない」という恥に対して、「家族にいつまでも寝ている姿を見せられない」「子どもに心配をかけてはいけない」という母親の意地があるのだ。
この「意地」は、いったいどんな成分でできているんだろう。
誇り、プライド、自尊心。
思いやり、愛情、「子どもの前では元気なお母さんでいたい」という思い。
日常を取り戻したいというあがき。
それらが、意地という防衛を形作っている。
防衛を手放すことが容易いことなら、カウンセラーもクライエントも困らない。
必要だからこそ、それがクライエントの心を守る最後の砦になっているからこそ、手放してはいけないときもある。
防衛がなぜそこにあるのか。
その防衛のおかげで、守れているものは何なのか。
その防衛にじっと目を凝らすと、どんなリソース(強み、可能性、大切なもの)が見えてくるのか。
そうしたものに想いを馳せるようになって、自分のカウンセリングも随分変わってきたような気がする。