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〜自由が丘カウンセリングオフィスのblog〜

映画「ジョーカー」と永山則夫死刑囚について

話題の映画「ジョーカー」を観ました。

バットマンの悪役の誕生秘話という点について語れるほど、詳しくはないので、ジョーカーが体現する恥(shame)の問題と、日本のリアル・ジョーカーとも言える永山則夫死刑囚のことを書きたいと思います。


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恥(shame)については、このブログでも時々書いていますが、日本人にはあまり馴染みのない感覚かもしれません。

恥というと、日本では羞恥心(embarrassment)や恥じらい(shyness)というイメージの方が強く、「自分はダメな人間で、無能で、愛される価値も存在する価値もない」という感覚が、恥(shame)だとはなかなか理解されません。

日本語では、無価値感という言葉のほうが近いようです。

しかし、無価値感は「自分を無価値だと感じる」というふうに、自己イメージや自己感を表すときに使う言葉で、無価値感という感情があるわけではありません。

この無価値感を生み出している感情が、恥(shame)です。

ジョーカーは恥(sheme)に苦しむあらゆる条件を備えていました。

貧困、障害、自分を見てくれない母親、人とは違う自分、孤立。

これらはすべて、恥(shame)を生み出す要因です。

貧しさによって蔑まれ、笑い声が出てしまう障害のせいで周囲から白い目で見られ、自分を気にかけてくれる人もおらず、唯一の肉親は、空想の中の白馬の王子さまを追いかけるばかりで、自分がどんなに愛されたくても、見向きもしてくれない。

「誰も自分を見ない」

ジョーカーが言ったこのセリフを、心の中で呟いたことがある人は、決して少なくないでしょう。

彼は、確かに自分の中に存在する。

そう思ったからこそ、映画鑑賞後に何も言えない無力感を感じた方も多かったのではないでしょうか。

ただ、この映画は、「ジョーカーになれ」と私たちをけしかけているのではなく、「ジョーカーにならない生き方とは何か、ジョーカーを生み出さない社会とはどんなものか」を問うているのだと思います。

 

ジョーカーを見ていて、私は、最近読んだノンフィクションの主人公を思い浮かべずにはいられませんでした。

盗んだ拳銃で4人を殺害した永山則夫死刑囚です。

死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの (講談社文庫)

死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの (講談社文庫)

 

彼も貧しさの中で育ち、兄から暴力を受け、給食費を払えないため学校にも行けなくなりました。貧しさを笑い蔑む世の中を恨み、米軍基地から盗んだ拳銃で、4人の命を奪いました。

逮捕後、弁護士という人が自分のために何をしてくれるかも知らないほど、彼は無学でした。

永山則夫死刑囚は、裁判で社会の責任を問い続けました。

「自分のような人間を生み出さない社会にしてほしい」

これを殺人犯のたわごと、開き直り、社会に対する責任転嫁と決めつけてしまって、果たして良いのか。

もちろん、どんな生い立ちや背景を背負っていても、それが殺人を肯定する理由にはなりません。

それでも、貧しさの責任を個人や家庭に押しつけるような社会のあり方が続くなら、社会に牙を剥くジョーカーは、これからも生まれ続けると思います。

「自分のような人間を生み出さない社会に」

その実現のために、心理職がやらなくてはいけないことがたくさんあるような気がします。