affect phobia。感情恐怖、という言葉があります。
感情は、本来適応的なもので、私たちが生きる上で大切な情報を教えてくれるものですが、一方で不適応的な思考や行動の源となるものでもあります。
後者のような感情は、感情を感じる主体である個人の体験から排除されていることが多いとされています。
例えば、悲しみという感情に対する恐怖心を持っている場合、悲しみをしっかりと感じられず、代わりに怒りの感情がわいてきて、人間関係や心の健康に悪影響を及ぼします。
悲しみは自分の弱さや脆さとして感じられるため、恐怖の対象となりますし、怒りは対人関係を壊す恐れや怒りを表すことへの恥ずかしさを伴うことから、恐怖の対象となります。恥や恐れも同様の理由で恐れられますし、人によっては喜びや愛といったポジティヴな感情すら、恐れの対象となることもあります。
あらゆるaffect が phobia の対象となるのです。
invisible shame の記事でも触れたかもしれませんが、日本人のaffect phobia には、感情を「感じないように身体や表情をこわばらせる」という対処がよく見られるような気がします。
身体に力を入れることで、感情を閉め出しているといったイメージでしょうか。
そんなふうに“仲間はずれ”にされた感情が、悪さをしないはずがありません。
人間関係の問題、心身の不調、行動上の問題を引き起こし、「仲間はずれにしないで!」と私たちに訴え続けます。
折しも先日は節分でしたが、こうした普段避けられている感情は言ってみれば、「鬼」のようなものかもしれません。物語に登場する「鬼」は怪物のようなものではなく、忌み嫌われて世間から排除され、差別の対象となった人びとを象徴していたとも言われています。
鬼退治。鬼は外。
そうやって自分の中から、自分の縄張りの中から、「鬼」を閉め出すことで私たちは一時の安心を得ようとします。
しかし、夜叉や般若に象徴されるように、人の中には「鬼の面」があり、完全に閉め出すことなどできないのではないでしょうか。
夜叉や般若のお面は、見る角度・見る人・見る場面によって、さまざまに表情を変えるのが不思議ですが、怒ってるようで泣いている、泣いているようで怒っている、というふうにいくつかの感情が投影されることが多いように思います。
自分の中の見たくない感情、感じたくない感情、触れるのが怖い感情。
そんなものを「鬼」として考えるとき、こんな物語を思い出してみてください。
「鬼」のこころ。「鬼」の傷つき。「鬼」の優しさ。「鬼」のいる意味。
そんなものもあることに思いを馳せ、少しでも「鬼」扱いして恐れてきた感情の声に耳を傾ける気持ちを持っていただけたらと思います。