内田氏は、読み手のことを意識した「私たち」という主語をよく用いる。
これは、この本の冒頭で内田氏自身が、「宛先」に私が含まれていないような本は、たぶん読む必要のない本である、と言い切っていることと関連するのかもしれない。
だけど、あるとき、私は、この「私たち」という主語にどうしても引っかかってしまったことがあった。なんだか、「私たち」の中に私を含めてほしくないような気分になったのだ。
その違和感を掘り下げていくことも大切だったかもしれない。
でも、私はそのとき、こんなことを思っていた。
「私たち」という主語がここで使われていなくても、私はこの文章にひっかかりを覚えただろうか、と。
他人事か、自分事か、では、おそらく感じ方が異なる。
内田氏の狙いにまんまとはまった、というわけではないけれど、私はそのとき、文章と自分のあいだの距離が、思っていた以上に近づいていたことに気づかされ、その現象を興味深く感じる気持ちが、違和感の追求に勝ってしまったのである。
石井ゆかりさんは、禅の「喫茶去」ということばを紹介するなかで、こんなふうに書いている。
誰かと出会うときはいつも、自分でも気づかなかった自分の一部を引っ張り出されてしまう。未熟さや弱さに気づかされたり、時には、長所を見つけたりもする。自分のことが本当にわかりるのは、「誰か」がそこにいるときだ。

- 作者: 石井ゆかり,井上博道
- 出版社/メーカー: パイインターナショナル
- 発売日: 2011/04/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 2人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
誰かといるときに、普段意識しなかった自分に出会う。
内田氏が、私、と書くよりも、私たちと書いたことが、他者を意識させる結果になったというのが、なんだかとても面白かった。
境目というのは、遠くにいるときにはわからないもので、近くなればなるほど、別々だということがわかるものなのかもしれない。