感情や体験に焦点を当てたカウンセリングをしていると言うと、同業者から次のような質問をされることがあります。
「感情って大事だとは思うけど、あまり感情に焦点を当てすぎると、クライエントが依存してくるのではないですか」
簡潔に言えば、答えは「No」です。「そんなことないですよ」とはっきり言えます。
しかし、こうした質問は決して珍しいものではなく、甘えと自立をめぐって、支援者の側にもさまざまな思いがあるのだなと感じます。
しっかり甘えたからこそ、離れられる(自立できる)と思いますし、助けやサポートを求められる力は、役割や責任が増えていく大人にこそ必要なものです。
大人になるにつれて、自分でできることも増えていきますが、私たちは、いくつになっても誰かに支えてもらったり、助けてもらったりしながら生きています。
確かに、感情に触れていくカウンセリングの中では、治療関係が重要な役割を果たします。
しかし、感情に触れるカウンセリングをしていても、クライエントさんがセッション以外の時間に、私にコンタクトを取って来られることはありません。
心の中に私のことを置いてくださったり、面接室のイメージを思い出したり、私の言葉をお守りにしてくださっていることはあります。
しかし、それは果たして「依存」でしょうか。
カウンセリングという機会やそこでのカウンセラーとの関係を、うまく「支え」にしながら、過ごしているということだと思います。
専門家にサポートを求めるという行動にはむしろ、勇気と強さ、「これは自分一人で対処できることではないな」という自立的な判断があるのです。
感情に触れると、過度な依存を引き出す。
こうした誤解の背景には、一体何があるのでしょうか。
感情の理論について、十分に学ぶ機会が乏しいことも一因でしょう。
もう一つ思い浮かぶのは、この問いを発する人自身に、助けやサポートに対する強い渇望がありそうだということです。
もっと言えば、助けやサポートが差し出された途端、ガチガチに力の入った全身が緩み、怒りや悲しみや安堵感などが入り混じった、感情の渦に巻き込まれそうになるのかもしれません。
自分を保っていることが難しくなりそうな感覚ですよね。
これが怖くて、その渇望に「依存」というネガティブな言葉を与えて、自分から遠ざけようとしているのかなと考えることもあります。
これは個人の問題ではなく、社会や文化、職場の構造の問題です。
それだけ「助けて」と言いにくい社会で、私たちは生きているのです。
助ける・助けられることについて、人それぞれさまざまな思いがあるのは、当然のことです。
ただ、支援者としては、それが自分の仕事や、仕事でかかわる人々を見る目にどんな影響を与えているのか、振り返って認識することは大切な作業だと思います。