わたしとは、他者との出会いのなかで紡がれるもの。
そういう感覚は以前からあったけれど、この「他者」には「場」というものも含まれていたんだなと、コロナ禍にあって思います。
職場に行っていたわたし。
満員電車の揺られていたわたし。
駅のホームで電車を待っていたわたし。
教室で教えていたわたし。
研究室にいたわたし。
職場までの道を歩いていたわたし。
開業という生活スタイルの変化もあったのですが、今ほど、家賃がかかっても別にオフィスを持ってよかったと思うことはありません笑。
オンラインだけのカウンセリングにして、自宅でも仕事ができるようにしていたら、私は、ビフォア・コロナの頃に生きていた「わたし」の大部分を失うことになったからです。
「テレワークが当たり前になる」などと、まことしやかに言われることもありますが、それは単に働き方の変化ではなく、「わたし」の構成要素そのものの変化です。
「わたし」を構成してきた人や場とのかかわり自体がなくなった今、「わたし」という存在は、構成要素を失ってバランスが悪くなっているかもしれません。
はたまた、構成要素だけが残り、それの「行き場/生き場」がなくなってしまったために、「親・パートナー」・「会社員」・「一個人」という構成要素が、「家庭」の中にぎゅうっと押し込められ、窮屈で、酸欠状態になっているかもしれません。
このコロナ禍において、さまざまな場所と結びついていた「わたし」を、限られた居場所の中でどう共存させていくのか。
・・・こう書いてはみたものの、そのためにはやはり、ある程度の「場(スペース)」が担保されなくてはならないと思います。
「わたし」は一つの側面でできているわけではありません。
誰かのパートナーであるわたし。
誰かの親であるわたし。
誰かの子どもであるわたし。
どこかの会社員であるわたし。
誰かの友人であるわたし。
どこかのお店の客であるわたし。
コミュニティーの一員であるわたし。
無理をしてい続けていた「場」とのつながりを見直すにはいい機会ですが、さまざまな「わたし」と一緒に、このコロナ禍を生き延びたい。
コロナ禍でつらくなっている今、どの「わたし」の部分が生きられていないのか、振り返ってみるのもいいかもしれません。
そして、その「わたし」に必要なことをしてあげましょう。
今は、その「場」へいけないことを、思いっきり悲しむことも大切かもしれません。
その「場」が奪われたことに対するやり場のない怒りも感じるかもしれません。
そして、自分の中に生きるさまざまな「わたし」とタッグを組みましょう。
会えなくて寂しいと思えるほどのつながりがあること。
奪われて憤るほど大切な環境があること。
それは、あなたが今まで精一杯生きてきたことの証なのです。