じぶんと言う表現に、「分」という漢字が使われていることについて、最近いろいろ考えています。
「分」には、身の程とか身の丈といった、その人の能力や身分という意味もあります。
そして、「分」には、もともと「分ける」という意味もあります。
この「分ける」という作業は、カウンセリングのプロセスの中でよく出てくるものなのです。
例えば、自分に冷たくした親と、愛してくれた親とを分ける(簡単ではありません)。
母という役割と妻という役割を分ける。
過去の自分と今の自分を分ける。
防衛的な感情と、しっかり体験したいコア感情を分ける。
IFS(内的家族システム療法)という心理療法では、この「分ける」ことが、unblending(アンブレンディング)という技法として示されているほど、「分ける」という作業は重要なのです。
例えば、自分に冷たく当たった親も、自分を愛してくれた親も同一人物として体験される限り、親に対して、「怒りたくても怒れない、怒ろうとすると罪悪感が出てくる」という葛藤状態から抜け出すことができません。
この場合、自分に冷たく当たった親(と、それに伴う自分の体験)と、、自分を愛してくれた親(と、それに伴う自分の体験)を分けて、プロセスする必要があります。
冷たく当たった親には怒りを。
愛してくれた親には感謝を。
それぞれ、別々に体験するのです。
そうすると、葛藤状態(ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような状態)を引き起こしていた罪悪感が和らぎ、怒りは怒りとして、感謝は感謝として体験することができます。
私たちの自己は、一つではなく、さまざまなパーツの統合体であると考えるのが、最近の心理療法によくみられる流れです。
社会的な役割だけではなく、傷ついた子どものパーツとそれを保護するパーツといった、ある体験から生まれたさまざまな性格のパーツが、私たちの心の中に住んでいると考えるのです。
つまり、自分を知るということは、空の上から大きな森をみることと、その森の中に降り立ち、一本一本の木々の生え方や性質を知ることという、2つの視点から成り立っています。
森として見る視座に偏ると、ある木の根が腐り、朽ち果てていくことに気づけないかもしれません。
一つの木を育てることだけに一生懸命になると、森としてのバランスを欠いてしまいます。
要素分解と統合を繰り返しながら、私たちは、自分自身を知っていくのであり、それは生きている限り続く、終わりのない営みなのだと思います。