人生における生きづらさの放物線を描いてみると、どんな形になりそうですか。
私の生きづらさのピークは、思春期の頃でした。
両親のルーツも地元ではなかったせいか、生まれ育った土地に愛着が持てず、早く大人になって地元を出たいと思っていました。
学校で押し付けられる、「普通」や「みんなと同じがいい」という感覚からも、窮屈さを感じていました。
少し大人びた子どもでしたし、みんなと同じでいることが、善だとも安心だとも思えませんでした。一方で、違和感を抱えた自分は、この世界から歓迎されているのだろうかと、不安に思うこともありました。
でも、あるとき、ふと思ったのです。
「 世界は広い。だから、こんな自分でも、どこかにきっと居場所があるはずだ」
自分がいる、今ここで見ている世界だけが、すべてじゃない。
幸い、そんな考えがおかしくないと思えるほどに、地元は田舎でした。
そんな田舎で過ごした思春期は、今から思えば、一番不自由な時代でした。
社会的な責任を負うことは少なかったけれど、その分、お金もなく、世間知らずで、自分で動かせる乗り物といったら自転車くらい。自分の時間は、宿題や習い事で埋め尽くされていました。
自分が、まるで水たまりで溺れるアリのように思えました。
外には、もっともっと広い世界があって、地元の風土や文化にうまくハマりきれない自分でも、しっくりと噛み合う場所があるはず。
まだ見ぬ土地に、自分の居場所がきっとある。
そう思うと、すっと胸に息が通るような感じがしました。
「今ここにはないものを想像する力」が、生きづらさを抱えた思春期の私を支えてくれました。
現代を生きる子どもたちは、もしかしたら、もっと苦しく窮屈な思春期を過ごしているのかもしれないなと思います。
彼らにどんなものが必要なのか。
私に言えることは何なのか。
こうしたニュースを見ると、つい考えてしまいます。
生きることは簡単じゃない。大人になっても、いろんなことがある。
それでも、生きていてよかったと思える幸せな瞬間もたくさんあるよ。
とりあえず明日まで、
そう思って、1日1日をやり過ごすだけでもいい。
「あのとき、つらかったけど、よく生きてきたね」ってきっと自分に言ってあげられる日が来るから。
未来の自分のために、今を生き抜いてほしいとおもう。