映画『プリズン・サークル』鑑賞後、一番後悔したのは、「メモ帳を持ってくるべきだった」ということだ。
印象的なシーンや、後からゆっくり考えたいセリフが多すぎて、自分のワーキングメモリという内臓HDDだけでは、取りこぼしてしまったことが多すぎたのだ。
SHOWROOM社長の前田裕二さんの著書『メモの魔力 The Magic of Memo』に感銘を受けて以来、生活の中でもよくメモを取るようになった。
ファクト→抽象化→転用というプロセスで、感じたことを深掘りし、練り上げる機会は圧倒的に多くなった。
この記事では、映画『プリズン・サークル』で多くの人が涙した場面を、「ファクト→抽象化→転用」のプロセスに当てはめて考えてみたい。
(ここから先はネタバレを含みますので、ご注意ください)
1. ファクト:受刑者が最後の取材でインタビュアーとの握手を望み、それを禁止される場面で、多くの人が涙した。
映画の終盤、個別インタビューの最終日に、ある受刑者が「(インタビュアーと)握手してもいいですか?」と刑務官に尋ねる場面がある。
同席していた刑務官は、すかさずNOと言う。接触は、刑務所内では「違反行為」に当たる。刑務所において「接触」は禁止されているのだ。
受刑者の顔にはモザイクがかかっているが、彼が、「ダメですって」と笑いながら、わかっていたというふうに、しかし残念そうに言う場面で、会場のいたるところからすすり泣きが聞こえた。
「(刑期を終えて)外に出てからな」と、刑務官が言った。
私も胸が締め付けられるような気持ちになり、涙がこみ上げた。
なぜ、この場面が多くの人の心を打ったのだろうか。
2. 抽象化:映画を見ているうちに、受刑者が「他人 someone ではなくなる」
この映画の冒頭、同じ髪型・同じ服装をして、顔にモザイクをかけられた受刑者たちを見て、最初に私はこう思った。
「誰が誰だかわからないな」
しかし、受刑者一人ひとりにスポットが当たり、彼らの生い立ちや犯行に至る経緯といった、映画の副題にもなっている「彼らがここにいる理由」が明らかになるに連れ、おそらく私にとって、彼らが「他人 someone ではなくなっていった」のだと思う。
誰か、ではなく、名前を持ち、この世に確かに存在する「彼」に変わった。
そして、あのシーンで、私は、自分との握手すら禁じられたように感じたのだと思う。心は近づいたが、そこには決して越えられない壁がある。それがとてもつらかったのだ。
3. 転用:受刑者に寄り添う人たちの心の痛みに想いを馳せる。
「その他大勢の中の一人ではなく、相手の心に影響を与える存在である」
これはきっと、受刑者が、刑務所に入る前に感じたかったことだと思う。
犯罪を犯す人たちの多くが、自分は誰にも影響を与えることのできない存在だと感じている。
この映画を通して、見た者たちの心に、確かに「あなた」がインパクトを残したのだと、あの映画に登場したすべての受刑者に伝えたい。
そして一方で、彼らに寄り添う社会復帰支援員、刑務官の方の気持ちを思った。
エドワード・トロニックという研究者が行なったある研究がある。
この研究では、乳幼児は生まれながらに社会との相互作用の中に生きていて、他者(この動画では母親)からの情緒的な反応を引き出そうと一生懸命になることが示されている。
Still Face Experiment: Dr. Edward Tronick
あまり語られないが、この無表情でいる間の母親たちの心情についても、トロニックは記している。
母親たちは、実験のルール上、子どもに反応できない時間がひどく苦しかったと述べているのだ。
応えてあげられないつらさ。
子どもが伸ばす手を握ってあげられない歯がゆさ。
子どもが混乱していく様子を見ることしかできないもどかしさ。
泣き出しても抱きしめてなだめてあげられない苦しさ。
そんな制限から解放されたとき、母親たちは笑顔になって優しいトーンで我が子にこう言う。
「It's O.K. Mommy is here」
「Mommy is real」
思いに応えてもらえないときだけではなく、思いに応えられないときにも、人は心を痛める。
そして、相手の心に、心で答えられたときこそが、「本当に相手の側にいる」ことだと、私たちは本能的に知っているのだ。
たった2時間、受刑者の心に触れただけの私ですら、あの場面では胸が張り裂けそうになった。
このTC(回復共同体)というプログラムに関わるスタッフたちも、こうした「応えてあげられないつらさ」があるのではないだろうか。
被害者の痛みを思えば、人との物理的な接触を禁じられて当然だと考え方もあるだろう。
しかし、スタッフたちの人間らしさにまで制限を加えられる環境が、刑務所の中にあるならば、職務とは言え、大きな心の負担になる。
SHOWROOM前田さんの「幸福の総量」と言うのも、私の好きな言葉なのだが、受刑者への制限が、スタッフのQOLやウェルビーイングを損なうことになっていないだろうか。
そんなことを考えさせられた。
やはりもう一度、ペンとメモ帳を持って、劇場に行くべきかもしれない。