舟を編む、という辞書を作るお話があったことは、記憶に新しいところですが、哲学する・哲学を持つということは、人生を編むことと言えるかもしれません。
「なにものかへの問いは、その問いそのものへの問いを自己言及的に含んでいなければならない。」
例えば、上記のような文章に出会ったとき。
ひとつひとつの文字が、心の襞の上をペタペタと駆け回り、その足跡から意味が染み込んでくるような感覚が湧き起こります。
変態的(マニアック)というと自虐的すぎるのですが、活字を通して哲学に触れることは、私の中に一種の特別な感覚を引き起こすのです。
出会いと言ってもいいかもしれませんし、摂取といってもいいかもしれません。
文字や語りを通して哲学に出会ったとき、人は自分の内側を見つめる目を持つようになる。そんな気がします。
哲学にあるのは、内側を見つめる真摯なまなざしです。
この点について、鷲田氏は「外へ出ていくべきだ」と問題提起していますが、それも哲学というものを真摯に見据えた結果の視座でしょう。
外の世界ばかりを追いかけていると、ときおり無性に、自分の内側に引きこもってしまいたくなるときがあります。ないがしろにしてきた感情を、ひとつひとつ引っ張り出して、抱きかかえたくなるときがあります。
そんなとき、人は哲学的な視座に立って、自分の人生の編み目を確かめているのだと思うのです。そういう時間と、外に出て背のびをする時間とを繰り返しながら、人は成長し、変化して、人生を織り上げていくのかもしれません。