見る、ということに、多くの意味を付与している本に出会うことが、最近多いです。
この本の中では、フランス語の動詞regarderには、「見つめる」と「かかわりを持つ」というふたつの意味があるということから、「顔を見ること/かかわりを持つこと」は、単に「見る」ことではなく、「語りかけ、聴き取ること」と表現されています。
鷲田清一氏も「見る」ことと「まなざす」ことの違いについて書いていました。
言葉の持つ意味は、馬鹿にできないもので、その国の文化、慣習、価値観に深くかかわっています。
フランス語で、「見つめる」は「かかわりを持つこと」とされているのに対して、日本では「目」にまつわる表現は、より繊細にわけられている感じがします。
鷲田氏は、相手が自分を見ていないとき、私たちは相手を「見る」ことができるけれど、相手がこちらを見てしまった瞬間、「見る」ことが成立しなくなってしまうと述べています。
- 作者: 鷲田清一,植田正治
- 出版社/メーカー: 阪急コミュニケーションズ
- 発売日: 1999/06/30
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 69回
- この商品を含むブログ (72件) を見る
つまり、目と目があった瞬間、見るという行為は、異なる意味を帯びてくるのです。
目があう、ということの日本人にとっての威力を知るには、古事記までさかのぼると面白いことがわかります。
古事記には「目合」という表現がよくでてきます。目合のあとに、結婚していたりします。
目合ひ、は、まぐわひ、と読み、目と目が合うということだけでなく、体を重ねることまでをも指すのです。
こんなふうに考えてみると、日本人がアイコンタクトが苦手なのも仕方のないことのように思えてきます。
日本人の遺伝情報には、目が合うことは、裸になることと同じくらいの強烈な感覚を引き起こすものとして、書き込まれているのかもしれません。