自分と相手が、別々の人間であると認識すること。
この大切さは、一度しっかり義務教育の中で教えるべきではないかと、最近つくづく思います。
「自分と相手が別々の人間だなんて、そんなこと、みればわかる」
という人もいるかもしれません。
でも、目に見えない「心の境界線」は、日々いとも簡単に侵されています。
哲学者の鷲田清一さんの本に、以下のようなエピソードとともに「他者にとっての他者」という言葉が出てきます。
子どもが、母親を拒絶するような仕草を見せる。
母親が「ママのこと好きじゃないの?」と母親が聞くと、子どもは「うん」と言う。
これに対して、「そう。わかったわ」とそっぽを向く親A。
「生意気言うんじゃない」と手をあげる親B。
「本当はママのことが好きってわかっているわ」と言って子どもを抱きしめる親C。
(前掲書「4:他者の他者であるということ」より)
子どもの心に最も深刻な影響を与えるのは、どの対応だろうと、カウンセリングを学ぶ学生たちに尋ねてみると、最も多いのはBです。
確かに、子どもに対して暴力に訴えるのは、もちろんいいことではありません。
でも、本当に恐ろしいのは、Cのような反応です。
なぜなら、Cの反応だけが「子どもの意図を受け取っていない」からです。
子どもは、親の意に反する考えや気持ちを持つ別の人間であると、認めてもらっていません。
これは、自己愛人間とコミュニケーション・スタイルとよく似ています。
自分は、相手にとっての他者である。
相手は、自分にとっての他者である。
つまり、人は誰でも「他者にとっての他者」なのです。
しかし、自己愛人間にとって周りの人は「自己の延長」です。
相手は、自分が思い描いたことを思い、話し、振る舞います。
彼らの世界に「他者」はいないし、彼らは「誰かにとっての他者」でもないのです。
これでは、「思いやり」が生まれようもありません。
「相手は自分とは違う人間だ」という認識があるからこそ、意図を尋ねたり、許可を取ったりというコミュニケーションが生まれ、違いを尊重し、思いやることができます。
思いやりは、自分とは違う相手とかかわるときに必要な感情なのです。
英語で、思いやりを意味する「compassion」にも、「com=ともに」という接頭辞がついています。
思いやりは、自分と誰かの間に生まれる。
もっと言えば、そこでしか、生まれ得ないものなのです。