松岡正剛氏が、月を擁護する月明派なら、鴻上尚史氏は、孤独を擁護する孤高派とでも呼べそうな方です。
ひとりになると、なんとなく不安になり、落ち着かない。
そんな感覚ももちろん、自分の内側から起こる、紛れもない自分自身の体験です。
でも、それはあまりにたくさんの物と情報に溢れてしまった世界から、別の世界へ移るときの、ちょっとした違和感に過ぎない、と思うのです。
その不安をやりすごして、自分の内側に向き合ってしまえば、物と情報に溢れた世界の喧騒が、煩わしくなることも多くあります(ちょっとややこしいですが、感情の中にはこんなふうに、やりすごしたほうがよいものもあります)。
大好きな飲み物を飲みながら、心地よいブランケットに包まって、本を読む時間。
夕方に、ベランダから、太陽が沈むにつれて表情を変える空を眺める時間。
映画「イルマーレ」の中で、ベテランの女医が若い医師ケイトに、こうアドバイスします。
「休みの日には、できるだけ遠くへ行きなさい。あなたが自分自身に戻れるような場所に行くの」
そんな時間は、おそらくどんな人にとっても必要で、人によってはそれを「贅沢な時間」と呼ぶのではないかな、と思います。
もちろん、ひとりの時間と、誰かと触れあう時間とのバランスは大切です。
鷲田清一氏は、「他者のおもいの宛先としての自分」という、素敵な表現をなさっていますが、これは他者がいなくては、自己は存在しないという考えに基づいています。
誰かとのかかわりを通じて、自分が感じていることがより深くわかるということもあります。他者の存在に、自分の存在を響かせてみることで、自分の輪郭がより鮮明になるのです。
一方で、ひとりにならなければ、わからないことというのも間違いなくあるような気がします。誰にも邪魔されないところでしか、顔を出さない何か。
それも、きっと自分自身の大切な一部です。