五感は、感情へつながる入り口です。
目で見るもの、口に含むもの、手で触れるもの、鼻で嗅ぐもの、耳で聴くもの。
今日はその中でも、音楽について書いてみます。
最近は、もっぱらジャズやクラッシックが耳に心地よいですが、かつては尾崎豊が私にとって音楽のすべてだった時代がありました。
彼が亡くなった、1992年。私はまだ小学生で、彼のことをリアルタイムに知っていたわけではありません。ですが、なぜだか小学校6年生から高校1年生まで、私は彼の音楽を中毒のように聴き続けました。
彼の声に、彼の言葉に、彼の叫びに、私はどこにも見つけられなかった、やりようのない感情の預け場所を見出していました。
言葉には到底できない、行動に移そうものならとんでもないことになってしまいそうな、思春期特有の、もやもやとした、灰色の煙が出そうな、燻る思いを、彼の音楽を耳に流し込み、口から吐き出すことで、バランスをとっていた時代。
彼の音楽に出会わなかったら、いったい自分はどうなっていただろうと考えると、ぞっとします。
今思えば、彼の音楽を聴くときにだけ、私は本当の自分の感情に触れることができたのです。怒りも、悲しみも、虚しさも、やるせなさも、喜びも、愛おしさも、彼の音楽にぶつけて、響かせて、そこから跳ね返ってくるものをひとつひとつ確かめながら、自分の中に再び取り込んでいたような気がします。
彼の言葉が私の感情の輪郭をなぞり、彼の声が私の感情に触れ、彼の叫びが私の感情をありのままに肯定してくれる。
そんな体験は、もしかすると、家族や友人との間ではなかなかできなくて、音楽や本やアニメ、あるいはカウンセリングのような非日常的な空間に、心の置き所を見つけることで初めて、可能になるのかもしれません。
今でも、折に触れて彼の歌を聴きますが、その感覚は変わることなく、私の中に生き続けています。
みなさんの、自分の感情の預け場所は、どんな作品の中に、どんな思い出の中に、どんな体験の中にありますか。
それは、ご自身にとっての大切な宝物です。どうぞ、これからも愛し続けてください。
デビュー30周年だそうです。おめでとう。