大人になるということは,感情を理性で律することができるようになることだと、多くの人が思っています。
もっともらしい理屈や説明を、私たちはスポンジのような柔らかい心の盾にして,厳しい現実をやりすごす術を見つけていくのでしょう。
しかし、感情には、どうしても理屈や説明や常識の言うことを素直に聞けない、“子どもっぽさ”があります。
それは例えば、夜中に、怖くて眠れないと親を起こしにくる子どものようなものです。
家の中は安全であること、何も怖いことなどないこと、そんなふうに諭そうとしても、子どもはただただ不安げで、お化けが出るだの何だのと、ありもしない作り話さえ始めることもあるでしょう。
その子が本当に怯えていることとは、自分がひとりぼっちである、ということなのかもしれません。
諭そうとする親の心の中に、自分の居場所を見つけたいだけなのかもしれません。
ただ、抱きしめて一緒に居てあげること。
ただ、目を見て大好きだよと言うこと。
そんなシンプルなことが、私たちにはなかなか難しいのです。
理性の言うことを聞かない感情を、私たちは持て余し、回避し、ないものとして扱おうとします。でも、ただそこにいていいよと言ってもらえるだけで、感情という愛らしくわがまま子どもは、ひとり遊びを始められるのかもしれないのです。
できれば、怒りや悲しみや嫉妬など、扱いにくい感情が心にむくっと顔を出したときほど、そんなふうにしてあげられるとよいかもしれません。
英語圏のセラピーでは、感情に振り回されがちな人には、こんなふうにアドバイスをすることがあります。
I am angry. と言うのをやめましょう。
I feel anger. と言ってみましょう。
感情=自分自身ではありません。
感情=対象として、自分の中にある何か、あるいは自分の中にいる子どもとして認識することによって、それと“かかわる”ことが可能になるのです。