映画でも演劇でも、小説でも音楽でも、良い作品にめぐり合うと心が洗われます。
以前、twitterにムーミンのニンニが、「怒りを取り戻すことによって、自分の顔を取り戻す」と書いたときには、原作の人気もあって大きな反響をいただきました。
「顔をなくす」ということから、『千と千尋の神隠し』のカオナシを連想された方もいらっしゃいました。
そう言えば、日本にはもうひとつ「顔をなくす」キャラクターがいました。
のっぺらぼうという妖怪です。
のっぺらぼうにも、隠さなくてはならない感情があったのだとしたら?
そんなことを連想させてくれるお話が、宮部みゆきさんの『三島屋変調百物語六之続 黒武御神火御殿』の中に書かれていました。
※ 以下、ネタバレあり※
『同行二人』というこのお話の主な登場人物は男性です。
寛吉というのっぺらぼうと、そののっぺらぼうに憑かれた亀一。
この二人はいずれも、最愛の家族を失った悲しみを抱えていました。
一人は、その悲しみを周囲から非難されて。
もう一人は、悲しみに沈むと生きる意味を見失ってしまいそうで。
悲しみを感じられずにいました。
ここで、作品の一部を抜粋します。
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しっかりしろという励ましはまっとうな意見だが、心を打ち砕かれて涙を止めることのできぬ寛吉には酷い叱咤だった。
寛吉は寛吉なりに、泣くのをやめようと思ったのだろう。これではいかんと思ったのだろう。だが、どうにも涙が止まらないので、命を絶って泣くのをやめることにしたのだ。
そうして、彼の亡魂は迷った。彼を慰めたり励ましたりしてくれた人びとの前に顔を出すようになった。
泣いていない顔を。目も眉も鼻もないから、泣くに泣けない顔を。
そこに恨みや怒りがあるのか、亀一にはわからない。むしろバカ正直な反省があるように思えてならない。ほら、泣くのをやめました。泣いていないでしょう。顔がないんだから。
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のっぺらぼうになってさまよう魂を成仏させるとき、この寛吉と亀一は、二人きりで声を上げて泣きます。
そして、このとき、のっぺらぼうの寛吉に顔が戻るのです。
ニンニの怒りは、その場にいたみんなから祝福されました。
『同行二人』の中では、同じ悲しみを抱えた寛吉と亀一の二人しかいません。
二人きりで、一緒に泣くのです。
感情が誰かの中できちんと感じ切られて、収まりがついていくプロセスはカウンセリングをしていても、いろいろです。
そして、そのプロセスは、私とクライエントさんしか知らない感動的な物語です。
しかし、こうした作品に出会うと、私とクライエントさんしか知らない物語が、多くの人の物語と繋がっていくようで、とてもうれしい気持ちになります。