Talk to Your Heart

〜自由が丘カウンセリングオフィスのblog〜

「わかる」は相手を他者として認めることからはじまる。

先日、共感をテーマにした大学院の授業で、学生たちに、以下の①〜④のコミュニケーションのうち、どれが子どもにとって最も有害なコミュニケーションだと思うか、ディスカッションをしてもらいました。

(ちなみに、以下の例は鷲田清一さんの書籍『じぶん・この不思議な存在』(pp.115-116)を、一部修正したものです。)

 

例:学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が手を広げて待っている場面

①男の子は母親に駆け寄り、彼女にしっかり抱きつく。彼女は子どもを抱きしめて言う。「ママのことが好き?」 彼はもう一度母親を抱きしめる。

②学校から駆け出してきた男の子を抱きしめようと、母親は腕を開くが、彼は少し離れて立ち止まる。母親は言う。「ママのことが好きじゃないの?」。子どもは言う。「うん」。「そう。いいわ、おうちへ帰りましょう」

③学校から駆け出してきた男の子を抱きしめようと、母親は腕を開くが、彼は近寄らない。母親は言う。「ママのことが好きじゃないの?」。子どもは言う。「うん」。母親は子どもに平手打ちをくらわす。「生意気言うんじゃないよ」

④学校から駆け出してきた男の子を抱きしめようと、母親は腕を開くが、彼は少し離れて近寄らない。母親は言う。「ママのことが好きじゃないの?」。子どもは言う。「うん」。母親は言う。「でも、あなたがママのこと好きなんだってこと、わかっているわ」。そして、子どもをしっかりと抱きしめる。

 

とても意外だったのは、①〜④のすべてが、有害なコミュニケーションとして選ばれたということでした。臨床心理を学ぶ学生たちなので、深読みするところもあったようです。

私が、この例を通して考えてもらいたかったのは、いくら心理療法において、共感が大事と言っても、この共感とは、「決して相手そのものになるのではない、つまり、相手のことを相手自身、あるいはそれ以上にわかったつもりになるということではない」ということです。

例えば、④のように、相手の感じていることをまったく無視して、「いいえ、あなたが感じていることは、本当はこういうことなのです」などというのは、共感でも何でもなく、クライエントを再び自他の境界が曖昧な、混沌の渦に巻き込むことになりかねません。

②や③は、少なくとも子どもの意思が相手に受け入れられているという点で、救いがあると感じます。

しかし、④のようなコミュニケーションは、子どもが親とは異なる意思を持つ存在として認められていません。鷲田氏はこのような関係では、「ふたりのあいだに自他という関係が発生しようがない」と書いています。

わかる、というのは難しいことです。

わからないからこそ、相手の世界を理解しようとし続ける。

これこそが、共感の本当の姿だと思うのです。

この「わかる」力を過信した時、カウンセラーはクライエントにとって脅威になる。

そんなことが、私の拙い説明から、学生たちに伝わっていたらいいなと思います。

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

  

人の心はどこまでわかるか (講談社+α新書)

人の心はどこまでわかるか (講談社+α新書)