Talk to Your Heart

emotions are colors of our lives

日常のコミュニケーションと心理療法の技法

先日、とある用事で、データ印刷のお店に行った。

対応してくれた店員さんと、用紙のタイプや加工について相談していたとき、私の背後にある自動ドアから、別のお客さんが入ってきた。

その人は入ってくるなり、店員さんに「○○ってできます?」とだけ聞いた。

あからさまに苛立っているわけではないけど、早口で、硬い木の棒がスコンと飛んでくるようなトーンだった。

店員さんが答えると、その女性は先ほどと同じトーンで「すぐできます?」と聞いた。

対応する店員さんの声にも抑揚がなくなり、能面みたいなトーンになっていった。

結局、その女性は、自分の求めていることはできないと思ったようで、そのままお店を後にした。

「こんにちは」の一言があるだけで、ずいぶん違っただろうなぁと、改めて【挨拶】の大切さを感じたし、「すみません」「ちょっとお尋ねしたいんですけど」といった、相手に【許可を取る】コミュニケーションも、店員さんに気持ちよく対応してもらい、結果的に自分も満足するために、役に立っているんじゃないかなと思った。

コミュニケーションは、言いたいことを言葉で言うだけじゃない。

自分が伝えている内容を、相手が受け取りやすくするために、私たちは表情や声のトーン、話し方をさまざまに変化させるという、こんなめんどくさいことを、進化の過程においても捨てずにきたのだ。

人間という種が守り、受け継いできた知恵は、極力使ったほうがいいなと思った。

そしてふと、フォーカシングやAEDPといった心理療法の介入技法の中にも、【挨拶】や【許可をとる】工夫があることに気づいた。

心理療法の土台には、細やかなコミュニケーションがあり、それは日常でも使い、磨いていけるものなのだ。

FAQ:カウンセラー初学者の場合 ①

カウンセリングを「学んで、実践する」立場から、「学んで、実践し、教える」立場になって、数年が経った。

カウンセラーやセラピストを志す心理臨床家の卵たちと、授業やスーパーヴィジョンで接していると、「見立てを伝え」たり、「病理や問題の成り立ちを共有」したりすることは、「クライエントを操作する」ことになるのでは、と心配する声にたびたび出会う。

Question:「カウンセラーが自分の意見を言ってもいいんですか? それはクライエントを操作することになりませんか?」

カウンセラーは自分の意見を言わずに、相手の話を聴くものだと誤解するのはわかるし、初学者にはありがちな質問だ。

でも。

でも、だ。

ちょっと考えてみてほしい。

例えば、肩コリで悩んでいる人がマッサージを受けに行ったとする。

Aというサロンでは、肩のコリを訴えると、肩の部分だけをマッサージする。一旦良くなったように感じるけど、また日常生活に戻ったら、肩がこる。その度にマッサージに行く。その繰り返し。

Bというサロンでは、肩のコリを訴えると、身体の全体を見てくれて、その肩のコリが肩そのものではなく肩甲骨の硬さから来ていると説明してくれる。肩こりが起こる原理と、日々行うといいストレッチを教えてもらい、少しずつ自分で肩こりに対処できるようになる。

さて、あなたはどちらのサロンに通いたいですか。

こう聞いたら、きっとBと答える人の方が多いのではないだろうか。

Aは、クライエントの悩みをただ、うんうんと聴くカウンセラー。

Bは、クライエントの悩みの成り立ちを専門的な知識を使って解説し、取り組むべきポイントを伝えてくれるカウンセラー。

今度、冒頭の疑問を持つ臨床家の卵に出会ったら、こんなふうに説明してみたいと思う。

Answer:さて、あなたはどちらのカウンセラーになりたいですか。

伝わるかな。うまく伝えられるといいけれど。

自分自身でいる、ということの輝き:映画「ある少年の告白」

GWは、映画をたくさんみました。

自分自身でいるということは、決して簡単なことではない。

でも、自分自身でいることは、尊くて美しい。

そんなメッセージが込められた映画は、いくつかありますが、この作品もその一つだと思いました。


映画『ある少年の告白』予告編(90秒)

同性愛者への偏見は、決して対岸の火事ではないと、私は思っています。

自分自身として生きようとすることを恥(shame)だと言われた経験は、性的指向に関することに限らず、結婚していない人たち、正社員として雇われていない人たち、学校に行っていない人たち、親と良好な関係が持てない人たちにも、多かれ少なかれあるものです。

自分自身として生きることは、親とのつながりや、友人や恋人とのつながり、社会に所属しているという感覚を脅かす場合もあります。

つながりを維持するために、自分らしさを捨てるか。

自分らしくあるために、つながりや居場所を捨てるか。

どちらかを取らなくてはならない局面で、一体どちらを選べばいいのか。

簡単に答えが出る問題ではありません。

しかし、あなたがあなたであるということを、あなた以上にわかっている人なんて、一体どこにいるのでしょう。

親でもなく、神でもなく、あなたらしく生きることをご自身に許可できるのは、あなた自身なのだということ。

そして、自分自身であるという生き方を選べば、つながりと居場所は新しい形で自ずと手に入るのだということ。

主人公のあり方を通して、そんなメッセージを私たちに伝えてくれる作品だと思いました。

顔は感情の舞台:その美しさと儚さと力強さ。

心理学者のP. Ekmanは、「顔は感情の舞台である」と言った。

カウンセリングでも、感情と切り離された言葉の代わりに、真の感情を伝えてくれるのは、顔である。

眼差し。噛み締められる顎。引き結ばれる唇。寄せられる眉根。こぼれ落ちる涙。ため息。

クライエントの心模様が、カウンセラーには見える。

 

一生懸命に、悲しみを覆い隠そうとする笑顔はとても美しい。

顰められた眉に見える困惑や心細さに震える瞳は、支援者側を奮い立たせる。

「この人のためにできることは何か」を真剣に心に問かけさせる。

だから、どうぞ、せめてカウンセリングの場では、顔に語らせることを許してあげてください。

感情と必死に戦っている人の表情は、決して滑稽なものではない。

感情のせめぎ合いを正直に映し出す人の表情は、人の胸を打つものです。


難破船 中森明菜

冒頭、彼女の瞳によぎる動揺と困惑、心細さ。

歌い出す前、目を閉じた彼女の心にあったであろう覚悟。

浮かんでは消える痛みと悲しみ。

それを覆い隠す厳しいまなざし、閉じられる瞳。

堪えきれずに溢れる涙。

時折、湛えられる笑顔。

 

一人の女性としての明菜さんと、表現者としての明菜さんの存在そのものがせめぎ合うようで、見ていると胸が張り裂けそうになるのに、決して目をそらすことができない。

彼女がとても美しいから。

そして、彼女を傷つきのなかに、一人にしておくことができないと思うから。

 

ただ美しいだけの映像でもないのも事実です。

二番に入る直前の瞳によぎる移ろいは、意識が飛びそうなんじゃないかと気が気でなくなる。

彼女の心の中に吹き荒れる暴風が、一瞬垣間見えるような気がする。

最後に、自分の頭を小突きながら見せる笑顔はあまりにも健気で、見ている方が涙してしまいます。

この明菜さんを美しく愛おしいと思った人は、きっと多いことでしょう。

でもこの美しさは、せめぎ合う感情と戦うどの人の顔にも見られるもので、その愛おしさも、見つめる側にきっと、こみ上げるに違いない気持ちなのです。

「感受性が強くていいことってありますか?」という質問から考えたこと。

カウンセリングをしていると、クライエントからいろんな質問を投げかけられる。

「感受性が強くていいことってありますか?」

最近、複数のクライエントから立て続けにこう尋ねられた。

肩を小さくすぼめながら、苦笑しながら、また時には涙ながらに発せられたこの問いを、折に触れて思い出している。

感受性の強い人は思いやりがあり、他者の身に起こったことを自分に起こったことのように考えられるので、相手が求めているサポートを提供することができる。芸術面でも豊かな才能があり、何かを生み出すことが上手だったり、センスの良さや文才に恵まれていることも多い。

けれど、クライエントが聞きたいのは、こんな答えではないような気もする。

感受性の強さ故に、他者の言動に心をかき乱されて、心身の不調に悩み、自分は人とは違うという疎外感に苛まれる。

こうした生きづらさを抱えながら生きてきた方にとって、感受性の強さは諸刃の剣のように感じられているし、感受性の強さを、自分の弱点、あるいは欠点だと感じて、恥じていることさえある。

だから、「感受性が強くていいことってありますか?」という問いかけは、時に、私の耳にこんなふうに聞こえてくる。

「感受性が強いのは欠点ですか?」

「感受性が強いことは恥ずかしいことですか?」

「感受性が強い私のままでいいのでしょうか?」

「感受性が強い私にも居場所はありますか?」

存在そのものが差し出されているかのような、切実な問いかけに心を揺さぶられ、私の答えにも熱がこもり、口から出る言葉は「その人の感受性の強さ」に対してではなく、「その人自身」に対して投げかけるものになる。

「そういう○○さんのことを、私はすごく素敵だと思っています」

「そういう○○さんのこと、私は好きです」

「こういう形(カウンセリング)ではありますが、○○さんに出会えてよかったと思っています」

あなたがこの世界に生きているということを、私は知っています。

あなたの言葉は、私の心の深いところへ届いています。

そんなことを伝えたい気持ちになる。

答えになっているのかわからないけれど、こういう気持ちを引き出してもらえる大切な質問をしてもらっていたんだな、とこれを書きながら思えた。

相手の魅力を見つけるのも、カウンセラーの仕事。

カウンセラーの仕事、あるいはカウンセリングと聞くと、人の悩みに寄り添う、話を聞くことで楽になってもらう・気づきを促進する、あるいは、精神疾患を抱える人の治療をするといったイメージが強いかもしれません。

でも、カウンセラーとして、実際にやっていることを思い浮かべてみると、決してそれだけではないなと感じます。

例えば、「話だけを聞いているのではなく、ノンバーバル・コミュニケーションにも注意を払っている」し、ちょっと意外なところでは「相手の魅力に気づいて、それを伝える」ということもやっています。

後者の「相手の魅力に気づいて、それを伝える」というのは、広くはロジャースの言った「肯定」に当たると思います。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方には、すでにバレてしまっていることかもしれませんが、私はけっこうオタク気質です。

臨床心理学に関することでも、有名人でも、音楽や小説でも、ハマるととことん熱中し、友達の集まりなどでも、それについて熱を込めて話してしまいます。自覚もある一方で、そういうのって、一人で盛り上がってるだけで、空気読めないって思われてないかな、と気にしていた部分でもありました。

ですが、あるとき、私がいつものように好きなアーティストの話を熱っぽく話していたときに、付き合いの長い先輩がニコニコ笑いながら、「ほんといい顔して話すよね」と言ってくれたのです。

彼は、私の話の内容だけではなく、話している私の表情やテンション、エネルギーを楽しんでくれて(ノンバーバルへの注目)、さらにそれを「いいね」と言ってくれたのです(相手の魅力に気づいて、それを伝える)。

彼は信頼する先輩でもあったので、私の中ではこれ以降、好きなことを夢中になって話すことに、ためらいや自己嫌悪を感じなくなったし、話した後の一人反省会でも、そのことが議題に上がることはなくなりました。

 

今、カウンセリングをやっていても、折に触れて、この体験を思い出します。

こんなふうに書くと、カウンセラーの手の内を明かしてるようですが、カウンセラーは人がどうしたら変わるか、どうしたら悩みから自由になれるかという心理学の理論に基づいて、こうしたことをある意味で意図的に行う人たちということができるからです。

あのとき、自分が感じた、くすぐったさにも似たうれしさや自信、そんなふうに思ってもらえるんだという新鮮な驚きを、自分のクライエントさんにも体験してもらえていたらいいなと思います。

心理職養成の大学院教育あれこれ:SVシステムについて

自分が若手ではなく、もはや中堅と呼ばれる立場であることを、学会で顔なじみの先生方からつっこまれ、「中堅」などというぶかぶかの上着に袖を通してみたのは昨年のこと。心理臨床の世界では、いわゆる「若手」や「初学者」は臨床経験5年目くらいの臨床家を指すのが一般的である。

私は九州で臨床家としての「若手」の時期を過ごし、「中堅」となってからは都内で臨床家の育成に携わる仕事をしているが、現在かかわっている学生の教育システムと、自分が経験したそれとの違いをたびたび感じる。

場所も時代の違うので、当然といえば当然だが、いろいろと興味深い違いもあるので、今回はそのことについて書いてみたい。

①SVorの選び方と料金

都内の大学では、ゼミなどを担当する教員がSVor役も担っているところが多い。Svorとゼミの教員が完全に一致しているところもあるし、ゼミの指導教員以外の教員がSvorとなるというシステムのところもある。この場合、院生は無料でSVを受けることができるが、必ずしも希望通りの教員から指導を受けられるわけではない。中には、非常勤SVorを雇い、多重関係に陥ることを防ぐ大学もある。この場合もSVは無料で受けられるが、非常勤講師は曜日ごとに割り振られているため、実習などで特定の曜日に大学に来られない院生は、そのSVorの指導を受ける機会が得られない。

私がトレーニングを受けた大学院では、基本的にSVは外部の専門家に委託し、院生が自分でお金を払ってSVを受けに行くというシステムだった。大学の相談センターに「スーパーヴァイザー名簿」が置いてあり、院生はケースを担当したら、その名簿の中から自分で SVorになってもらいたい先生を選び、自分でSVの依頼をするのだ。

その名簿は(おそらく)修了生や非常勤講師の先生方で構成され、私の場合は、集中講義にも来てくださっていたフォーカシング指向の先生にお願いをした。こちらは顔を知っているとはいえ、面識はほぼゼロと言ってもいい状態でSVの依頼メールを出すというのは、ハードルが高かったけれど、目上の人へ出すメールの書き方を学ぶ良い機会になったし、大学院修了後に自分でSVをお願いする免疫も、このときつけることができたように思う。

もちろん、依頼した先生がご多忙で断られることもあった。しかし、その場合もご丁寧にお手紙をくださった先生がいらした。そうした先輩方の態度に触れたことも、私がこの職業に失望せずに済んでいるひとつの理由になっている。

料金はピンキリで、精神分析のSVを受けていた友人は私の3倍くらいの額をSVに投資していた。金銭的な理由でSVorからの指導を断念した人もきっといたことだろう。

都内の学生の経済状況を見ていると、どちらがいいとは一概に言えないけれど、大学教員の多忙さを考えても、SVを外部委託にするという選択肢はもっと各大学院で検討されても良いことのような気がする。

臨床心理士、あるいは公認心理師を目指す方たちには、まずは身の丈にあったSVを受けたらいいと言いたい。有名な先生のSVがあなたを優秀な心理職にしてくれるわけではないし、学びへの出費で家計が火の車になっては元も子もないわけで、経済的な安全感を持ちながら学ぶことが大切だとおもう。

 

余談:文明の機器を活用したスーパーヴィジョン

ここからは余談だが、上京する直前、私は東京在住の先生からSkypeでSVを受けていた。料金は銀行振込である。SVもカウンセリングも、対面にこだわる時代ではなくなった。この先生のSVからはとても多くを学んだし、SVは対面でなければ質が落ちるという性質のものではないというのが、経験則からくる感想である。物理的なハンデを超えて、若手が経験ある臨床家から学べるシステムの活用は必須であると思う。

若手時代に受けたSV(スーパーヴィジョン)と、臨床家として生き残ることについて。

臨床心理学専攻の修士2年だった頃。

あるゼミが年に1回主催する合宿形式の事例検討会で、事例を出してみないかと先輩から声をかけられた。

スーパーヴァイザーは、九州在住の著名な精神科医、K先生で、この年1回の事例検討会は、その先生の名前をとってKカンファと呼ばれていた。

日頃から尊敬する先輩からの声かけであったことと、こんな機会は滅多にないという思いと、生来のミーハー気質から、さほど逡巡もせず引き受けた。

臨床心理士を目指す若手の方には、こうした機会があれば是非オススメしたい。著名な臨床家に自分のケースを検討してもらう機会は、余計な知恵や防衛を身につける前の、早いうちがいいと個人的には思う。)

K先生は、検討会の間中ずっとピスタチオを食べている、座り姿のまあるいおじいちゃんという雰囲気だったが、何と無く得体の知れない、つかみどころのない、宇宙みたいな存在感を放っていた。

事例の序盤には、ボディブローのようにじわじわ効いてくる発言もいくつかあったと思う。例えば、

「距離を取る、とかいうやり方は、僕は好かんね。クライエントがやる気なら、一緒にトレーニングする」

と、言われたのを覚えている。これはおそらく、自信のなさから、クライエントのためではなく、私のために距離を取ったというあり方をたしなめられたのだと思うのだけど、当時の私はそこまで考えることもできず、大御所に「そのやり方は好かん」と言われて半分ビビりながら、平静を保つために、その言葉を受け流していたような気がする。

しかし、終盤になると、K先生がポツリと言った。

「あなたは何にもしてないようだけど、この人は良くなってきている感じがするね」

私自身にも、一体何ができているだろうと思いがあったので、言葉の前半部分を嫌味とも批判とも受け取らず、そう思います、と思わず笑った。言葉の後半部分、特に「良くなってきている」と大御所からの太鼓判は、私の緊張を一気にほぐしてくれた。

そのあと、K先生は女性の臨床家と、男性の臨床家のあり方の違いを話してくれた。能動性と受動性それぞれの持つ力のことや、子育てを終えた後の女性は、男性がその間みっちり行なった鍛錬を、あっさり追い越すセンスを身につけて帰ってくるんだよなぁ、みたいなことをお話しされたと思う。

そして、私がその面接を次のセラピストへ引き継ぐにあたり、クライエントに伝えたいと思っていることを話すと、

「いいんじゃない。この人、そんなふうに言ってもらったことないだろうからねぇ」

と、K先生は座り姿と同じくらいまあるい声で仰った。

これが、事例検討会というまな板の上の鯉状態を生き抜いた私への優しさだったのか、本当に思ってくださったことだったのかは、K先生のみぞ知るところだ。

ただ、こんなふうにK先生がカンファを締めくくってくださったことが、私が10年間臨床を続けてこれた理由のひとつであると思うし、このK先生のあり方から、成長や治癒の最後の最後の責任と主導権は、スーパーヴァイジーの側、あるいはクライエントの側にあるのだということを教えてもらった。

ここで、若手をこてんぱんにやり込めて、人格までも否定するようなスーパーヴァイザーに当たっていたら、一握りの自信すら打ち捨てられ、私は、自分のこともクライエントのことも信じることができない、理論というお題目のみを盲目に追従する臨床家になっていたかも知れない。

私自身も学生を指導する立場になったここ数年、折に触れ、このK先生のカンファでの体験を思い出す。最後の最後で、スーパーヴァイザーがセラピストにならず、セラピストであるスーパーヴァイジーにケースの責任と主導権を返してくれた。

そんなスーパーヴァイザーに私もなりたいとおもう。