ある日、かじかむ手でひねった蛇口から、当たり前のようにあたたかいお湯が出てきて、ほっとしたと同時に、ごくごくわずかな罪悪感が胸を刺しました。
先の震災や、先日の大雪での山梨県の被害状況を見ていると、当たり前の日常の有り難さを思います。
寒さで凍えている人がいるかもしれないのに、と、ほっとした自分を戒める声が、ふと胸に去来したのでした。
この罪悪感は、多くの人を震災直後に現地へと向かわせた原動力のひとつでした。
現地へ行くことはできなくても、募金や献血、物資を送る、節電に努めるなど、めいめいが、何かできることはないかと考えていました。
何かしたい、だけど、いったい何をしたらいいだろう。
そんな混乱のさなか、我に帰らせてくれた一片の詩がありました。
わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない
ならば ここに
花を植えよう
感情に突き動かされて、気づいたら身体が動いていて、結果的にそれが誰かにとって大きな救いになることも、もちろんあります。
けれど、こんなときは冷静になるために深呼吸をして、自分の足元をみつめることにも、見過ごせない意味があるように思います。
この詩には、花というタイトルがつけられています。
花を植えるとは、祈ること、希望を持つこと。
そして、生きていくということが、象徴されているように思われるのです。