目めまぐるしい変化の波に飲まれて、すっかり更新を滞らせてしまいましたが、Blog再開いたします。
この再開により、みなさんと再会できますことを、うれしくおもいます。
言葉は、言の葉とも言われたりしますが、言葉遊びをしてみると、ことのはは、こと=理、の、は=刃とも言えて、理の刃、つまり、切り分ける力、秩序、ロゴスを連想させるわけで、これまでも時折述べてきたように、言葉にすることによって、取りこぼす情緒や体験、温度というものが生じる。
つい最近まで、そんなふうに思っていました。
ですが、あるミュージシャンの方が「言葉はリズムだ」とお話ししているのを聞いて、言葉の違う側面が見えたようにおもいます。
言葉とリズム、そこから連想されるのは、切り分ける男性的な秩序を重んじる力ではなく、情緒や体験、温度を内包するための器、というイメージです。
言語と非言語を、対立するものとして考えたり、独立したものとして捉えて、どちらが重要だとか、どちらが優位だとかいう論調で、話してきてしまったところが、このBlogにも多かったようにおもいます。
しかし、これからは少し、言語を非言語的なものを内包するための器として、捉えてみたいと感じます。
ここで興味深いのは、体験と言葉に関する理論です。
体験過程療法という心理療法の世界では、「言葉になる前の体験」というものが重視されます。言語に先立って、体験があるという哲学が根底に流れている学問です。
この場合、やはり言葉の機能は、体験を切り分けるというよりは、自分の中に生まれた体験を守る容れ物であるということになるような気がします。
大切なのは、体験にぴったりとあう容れ物の形や大きさ、質感にこだわることです。
恋を知る前のI love youと、恋を知った後のI love you、そして愛を知った後のI love you。
これらが、それぞれ同じでないのは、I love youという容れ物の中に入ったものの違いだけではなく、I love youという言葉それ自体も、容れ物としての形を変えているからではないでしょうか。