このお話、ご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。
悲しい物語ですが、私は数ある日本昔話シリーズの中から、この一冊を子どもの頃から大切に思ってきました。
自分の口にしたある言葉のために、たったひとりの肉親である父親を人柱にされてしまう少女のお話です。
大人になった少女は、あるとき、一声鳴いたがために猟師に撃ち落とされてしまったキジの亡骸を抱き上げてこう言います。
「キジも鳴かずば、打たれぬものを」
どうして、こんな物語が好きなのか。自分でもよくわかりません。
ただ、この物語からは、実に多くのことを考えさせられます。
父親が人柱にされたのは、高熱を出した少女にあずきまんまを食べさせるために、地主の家からあずきを盗んだ咎のためでした。
少女は、久しぶりにあずきまんまを口にしたのがうれしくて、それを手まりをつきながら「あずきまんま食べた」と歌います。
氾濫する川を沈めるために、村から人柱を出さなくてはならなくなったとき、村の人たちは「あずきなんて簡単に手に入るものではない。盗んだに違いない」と、「犯罪者」である少女の父親を人柱としたのです。
優しさとは何か。
正義とは何か。
多数派が振りかざす「正義」によって、個人の幸せや喜びが台無しになってしまう。
喜ぶことが、大切なものを奪うことになってしまう。
大人になった少女の挿絵が、表紙になっていますが、彼女の顔には何の感情も読み取れません。
自分の喜びが、大切な人の命を奪う理由になってしまったら、どんな感情も恐ろしくて外には出せなくなるのは当然のことでしょう。
これは決して、昔話でも、架空の物語でもなく、私たちの日常の中にあまりにもありふれてしまったテーマです。
「人柱をたてる」などという異常な状況でもないのに、公共の乗り物の中での、子どもの騒ぎ声に目くじらを立て、新しい生命を宿した妊婦に嫌がらせをし、それを「周りの迷惑」という多数派の正義でもっともらしく見せる。
正論を振りかざしそうになったときには、一度立ち止まって考えたいものです。
時に、お互いさまと目をつぶる優しさ、大目に見ることが、誰かの心を救うことになるということに、思いを馳せたいものです。
幸せな物語だけではなく、こうした悲劇の物語からこそ、真の優しさや思いやりを考えるヒントが得られるのかもしれません。