Talk to Your Heart

〜自由が丘カウンセリングオフィスのblog〜

ようやく怒れた人:「うまく怒る」までには段階がある

自転車に乗るのも、車の運転も、最初はみんなうまく行きません。

練習をして、だんだんとスムーズに乗りこなせるようになります。

歩き始めるとき、話し始めるとき、そのたどたどしさが愛らしいものです。

子どもが流暢に話すようになると、あのたどたどしさが懐かしくなることさえあります。

感情の感じ方や表し方にも、こうした発達段階があります。

しかし、感情の感じ方や表し方は、子どもの頃も、大人になってからも、私たちは誰からも教わることがありません。

なんとなく、見よう見まねで、周囲の大人たちがやっていることを真似したり、その感情を表したときにどんな目に遭ってきたかという自分の経験則から、自分なりの「感情の感じ方・表し方のルール」を作っていくのです。

感情には、受け入れられやすい感情と、そうでない感情がありますが、たいていは育ってきた環境によって、その判断基準が作られます。

喜びの感情を疎んじられるというケースも、決して珍しくはありません。

「怒り」は、日本人が苦手とする感情の一つです。

怒りを溜め込んできたり、知性化することによって飲み込んできた人たちが、より建設的な自己主張や大切なものを守る境界線を引くという怒りの本来の力を感じたとき、一時的に「怒りっぽい人」になることがあります。

この時によく起こりがちで残念なことは、「そんなに怒るのはよくない、みっともないよ」と、周りの人から咎められてしまうことです。

知性化し、怒りを溜め込んできた状態が、自転車に乗る前の状態だとすると、ようやく少しずつ自分の中の大切な怒りに触れ始める頃というのは、自転車を持って河川敷に行き、何回も転びながら、乗り方を覚える時期です。

ハンドルを操作するさじ加減がわからず、バランスがとれずに苦戦します。

この頃は、「感じること」と「表すこと」の区別も明確ではありません。

カウンセラーから、「感じることと表すことは別ですよ」と言われたり、「ここで怒りを表してもらうのは、外でのリハーサルのためではなく、あなたの中にある怒りを感じ切るためです」と説明されていても、カウンセラーに怒りを受け取ってもらったという体験が自信になります。

そして、「これなら、親にも/上司にも/パートナーにも、嫌なものは嫌だと言えるかもしれない」と、自分の中の怒りとのコミュニケーションが不十分な状態でも、つい、外で同じことをやってしまう場合があるのです。

クライエントさんが自分の怒りを感じて、表せるようになっても、周りにいる人たちはさほど変わっていません。周囲の人たちの動揺や困惑、あるいは感情を表せることへの嫉妬が、「怒るのはみっともない」という否定的な言葉になって、クライエントさんに跳ね返ってきてしまいます。

そうなると、「やっぱり感情を表すのはよくないことなんだ」と、せっかくカウンセリングの中でやってきたことまで、否定されるような気持ちになってしまいます。

(もちろん、「親が/上司が/パートナーがわかってくれた」というケースもあるのですが、こういう報告を聞くときは内心ヒヤッとします。)

怒りの表すことのリスクは、もちろんあります。

しかし、ようやく怒り始めた人に、そのリスクだけを伝えてしまうと、せっかく表現できた怒りを否定される体験になることもあります。

ようやく怒れた人の怒りの表現が、不器用だったり、過剰なものになることは、ある程度仕方のないことです。しかし、「感情の感じ方や、表し方にも発達段階がある」という考えが共有されていない社会では、それを理解し、練習して、年齢にふさわしい感情表出の仕方をしようというアイデアすら浮かびません。

 

カウンセリングの中では、まずは怒れたことを喜びたいですし、感情の感じ方や表し方も、失敗しながら身につけていくものなのだという理解を共有していきたいです。

表されたばかりの怒りは、言葉を覚えたての子どものようなものです。

怒りという体験が、洗練された言葉で表現されるまでには、ある程度時間がかかります。

そこを根気強くやっていくことで、怒りは、厄介者ではなく、力強い味方になってくれるのです。(表された怒りに、カウンセラーなり、パートナーなり、親なりが根気強く関わってくれると、このプロセスは加速するでしょう。)

怒りの表し方を覚える過程で、大切な人を傷つけてしまうこともあるかもしれません。

そのときは、傷つけたという事実を認めて、修復のための努力をすることが必要です。

「怒って出た言葉が本性だ」という意見も世間にはありますが、私はそうではないと思っています。

怒りは適切にコントロールされていないと、自分の傷つきや過去の恨みと簡単に混じり合い、必要以上の傷を相手に負わせることがあります。

それは、本来、怒りが望んでいることではありません。

怒りは、相手との間に適切な距離を保ちながら、相手が攻撃してくるなら即座に反応するけれども、そうでないのなら、お互いに歩み寄り、落とし所を見出そうとする感情です。

誰かが表している怒りに、ばしゃっと水をかけるのではなく、その怒りがどんな体験からきていて、どんな経緯でそこに表現され、これからどんなふうに洗練されていくのか、見守る気持ちも持てるといいなと思います。