誰かに向かう怒りが「ちょっと強すぎる」と、自分でもし気づけたら、それは、あなたの中の痛みとつながっているのかもしれません。
誹謗中傷と批判の違いが、さまざまな媒体で語られるようになりました。
しかし、一部には、悪意のある誹謗中傷とも、建設的な批判とも違う、「トラウマ反応としての攻撃」が含まれているように思えてなりません。
傷つけられた経験。
拒絶された経験。
いじめられた経験。
「お前が悪い」と一方的に責められた経験。
そんな経験を一度もしたことがない人の方が少ないでしょう。
一人の若い女性が命を絶ったことで、多くの人の心の中の放置された傷が、疼いているように思えます。
そして、「被害と加害」が同じベクトルの上にあるということが、今回の事態を通じてよくわかります。
かつて被害者だった人たちが、癒えない傷を抱えたまま加害者になる。
これは本当に悲しいことです。
攻撃の衝動は、悪意からではなく、自分の心の痛みから生まれることもたくさんあります。
本当は、攻撃される痛みも知っているはずなのに、誰かを庇う言葉に重ねて、かつて自分を攻撃した人たち、無視した人たち、見て見ぬ振りした人たちに、怒りをぶつけている。
そんな応酬がSNS上で繰り広げられている気がします。
心当たりのある人は、ちょっと深呼吸をして、落ち着いてみましょう。
そして、この出来事を通して、自分の心がかつての痛みに疼いていることを認めてみましょう。
自分の心が、今も傷ついていることを認めるのは勇気のいることかもしれません。
しかし、私たちの脳は、ショックな出来事に対してあまり強くありません。
ショックな出来事に遭遇すると、過去と現在の情報が、脳の中で混乱しやすいのです。
だから、今のショックな出来事に、過去の痛みがぶり返すのも、決しておかしなことではありません。むしろ人間である証拠です。
私たちにできることは、自分の中で起こっている反応をつぶさに観察して、自分が受けたショックや、過去から蘇ってくる痛みに、思いやりを持って寄り添うことです。
「私は、この出来事にすごくショックを受けている」
と、まず心の中でまず呟いてみるのもいいでしょう。
それは、犯人探しをすることより、ずっと、あなたの心にとっていいことです。
何がショックだったのか、この出来事で最も辛いことは何か、それは自分の過去の痛みと何か共通点があるのだろうか。
そんなふうに、少し自分の心と向き合ってみるのです。
そして、これは自分だけに起こっていることではないのだと考えてみましょう。
怒っている人も、傷ついている。
傷ついて怒っている人がたくさんいる場所に必要なのは、法の裁きよりも、自分の感情の面倒を自分でみるための知識やスキル、そして、互いに対する思いやりだと思います。
過去の痛みは思い当たらない。でも、ただただ、堪え難い罪悪感があるのが苦しい。
そんな人もいるでしょう。
そんな人は、心の中で、命を絶った女性に謝ってみるのも一つです。
事実とは違っても、「見殺しにした」と感じるあなたの優しい気持ちが、そこにあり、それはだれかを攻撃することではなく、謝ることで昇華できるものかもしれません。
そうしたら、今度は次にあなたができることを考えてみましょう。
大きなことでなくてもいいのです。
人の悪口を言わないと決めること。
いつもニコニコ笑っている人も、心の中には痛みを抱えているかもしれないと想像すること。
落ち込んでいる人に、カウンセリングを勧めてみること。
自分がカウンセリングや医療機関に行ってよかった経験があるなら、それを身近な人に語ってみること。
私たちにできることは、きっとたくさんあるはずです。
国は、ネット上の誹謗中傷に関する法整備に動き出しましたが、私は、カウンセリングを保険適用にするなど、メンタルヘルスの事業にも予算をつけてほしいと思います。
心の痛みは、誰もが抱えていて、それが時に人を攻撃する材料になってしまうと、多くの人が知り、それに対処していけるような世の中になればと願います。
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