新型コロナウイルス(COVID-19)による世界的な影響が続き、日本でも都市部に緊急事態宣言が出る中、最近は、この事態から何を学ぶかということを考えています。
近所のカフェは、ここ数日、座席数を減らして、社会的距離(Social Distancinng)に配慮するという対応を行なっています。
テレビのワイドショーや報道番組を見ても、出演者同士がこの社会的距離を十分取れるような、座席配置になっています。
一連の事態で、これまであまり意識することのなかった、“自分が他者に与えている影響”について、考えるようになった人も多いのではないでしょうか。
コロナ収束後の世の中は、物理的な距離だけではなく、人の心や尊厳についての“安全で安心できる距離”に、人々の意識が向かうようになったらいい。
私は、心に関することを生業としているので、どうしてもそんなことを考えてしまいます。
例えば、今、さまざまな場面で自粛が要請される中、
「みんなも頑張っているのだから、“自分も”家にいよう」というメッセージと、
「みんなも頑張っているのだから、“あなたも”家にいなさい」 というメッセージが飛び交っているように思います。
でも果たして、“あなたも”と言っていいのは、どこまででしょうか。
家族に対しては、“あなたも”という必要があるかもしれません。
国や自治体のトップは、全体の安全と安心を守るため、“あなたも”というメッセージを送る権限があります(都道府県民・国民の代表として、その権限を使うのです)。
でも、職場の人間関係や友人、ましてや赤の他人となると、この線引きはどんどん難しくなります。
本来、コントロールできるのは、自分の行動だけです。
不安になると、つい、私たちは普段コントロールできないものまで、コントロールしようとする衝動に駆られます。
お互いにとって、“安心で安全な心の距離”に対する意識が薄くなって、他人の行動や考え方、感じ方にまで、
「それは違う。こうしなさい」
「その考えはおかしい。改めるべきだ」
と、口を出したくなってしまうのです。
問題は、このような非常事態では、それが善意・正義だと思えてしまうところです。
自分が“正しい”と思うことをすることと、相手にもそれを要求することは、あくまでも別の次元です。
自分の思う正しさと、相手の思う正しさは違う。
それぞれが、自分の意見や考えを持っていて、そこに違いがあるというのは、大切なことだと思います。
少し、話がずれてしまうかもしれませんが、ヒトという種が繁栄するために、“多様性”は欠かせないものです。
いろんな性格や体質を持つ人がいて、いろんな考えを持つ人がいて、いろんな行動をする人がいる。この“違い”の数だけ、生き延びるための選択肢があるということです。
コロナから逃れて、都市部から地方へ移る人たちへのバッシングがありますが、種の保存という進化論的な観点から行けば、そうした行動も“生き延びるための戦略”だと言えるのです。
“あなたも”と言いたくなると場面は、これからも増えていくかもしれません。
同じ日本人であっても。
同じ場所に住んでいても。
同じ仕事をしていても。
血が繋がっていても。
“自分と相手は違う存在”だというところから、考えや言葉を紡いでいくことが、ますます大切になっている気がします。
言葉や考えは、“正しさ”を伝えるだけではなくて、“違い”に橋をかけるために使うこともできる。その可能性に目を向けたいと思います。