先日、友人からこんな相談を受けた。
「職場で怒りを顔に出したくない。どうしたらいい?」
聞けば、職場にモラルのない人がいるとのこと。
モラルのない人に腹が立つのは、自然なことだ。
でもそれを「出さないように」「抑えないといけない」のが現実であり、カウンセラーもクライエントも皆、そんな世界を生きている。
「怒りって、自分が大切にしているものが傷つけられたり、侵害されたり、無視されたりしたときに感じる感情なんだよ」
と伝えると、友人からは、
「そんなふうに考えたことなかった。何が傷つけられたと思ってるのか、考えてみる」
と返事が来て、やりとりは一旦終わった。
感情は人の役に立つものだから、長い進化の歴史を淘汰されず残り続けている。
怒りにもさまざまな役割がある。
大切なものを守る。
自分のテリトリーや権利を侵害する人に対する境界線を引く。
戦うためのエネルギーを身体に充填する。
恐怖や絶望に崩れ落ちそうなとき、心の中で怒りの感情を奮い立たせれば、それ以上の悲劇を防ぐために戦う力が湧いてくる。
鬼滅の刃という漫画にもそんなシーンがあった。
鬼滅の刃より②
— shiho@こころが元気になる場所 (@emotion_lab) 2019年12月21日
怒れ
許せないという
強く純粋な怒りは
手足を動かすための
揺るぎない原動力になる。
だから、傷ついた人の怒りを馬鹿にし、揶揄し、蔑み、怒りまでをも奪おうとする行為は、ただただ卑劣なのだ。
「怒れ」
これは、家族を殺され、唯一生き残った妹の命まで奪われそうになった場面で、主人公に向けられる思いだ。
絶望の淵に立つ主人公に必要なのは、怒りによって自分を奮い立たせることだった。
たった一つの “大切なもの” を守るために。
世の中には、卑劣で姑息なことをする人たちもいる。
そういう人たちは決まって、相手の「怒り」を揶揄し、蔑み、バカにする。
いじめた相手に怒ったら、笑われて、黙り込むしかなかった人もいるだろう。
ハラスメントだと抗議したら、「ヒステリーだ」とバカにされた人もいるだろう。
「やめてほしい」と伝えたときに、「それくらいで怒るなんて」と軽蔑の眼差しを向けられた人もいるだろう。
怒りを恐れる人たちは、「怒るのは筋違いだ」「怒るのは変だ」「怒るなんて恥ずかしい」というメッセージを与え、巧妙に相手から「怒り」を奪い、無力化しようする。
無力化の罠にはまらないように、怒りを奪おうとする相手の姑息さに目を向けてほしい。
こうした手段は決して、サイコパスと言われる人たちだけが使うものではない。
「怒り」を厄介に感じる人たちや、事を荒立てたくない人たち、問題に対処する力や余裕がない人たちは、こうした手段で怒りの火を消そうとする。
「怒り」の火が燃えるのは、大切なものを傷つけられた痛みや、恐怖や、失望があるからなのに、それに思いを馳せることもせず、ただ「厄介だから」「都合が悪いから」と、怒りごと消してしまおうとする。
怒りが受け入れられない世の中では、「怒りの火消し」は、善意として肯定されることすらある。常識人のすることと、誤解されている節もある。
この現象は、当然のように起きてしまうため、弊害に気づく人は少ない。
でも、私たちは怒りがあるから、自分のため、他者のために戦えるのだ。
相手に怒りを向けられることで、自分が相手を傷つけてしまったこと、相手の領域に立ち入りすぎたことや、想像力が足りなかったことを教えてもらえる。
感情は、人と人がつながって、支え合って生きていくために与えられたギフトだ。
そのギフトを自ら否定せず、人からも奪わないようにして、生きていかなくてはと思う。