カウンセラーが、「クライエントから求められていると思い込んでいること」の一つに、「解決策を提示するカウンセラー像」がある。
確かに、「アドバイスをください」と言って来談される方も多いのは事実だ。
しかし、カウンセラーは「問題解決屋」ではないと、私は思っている。
カウンセラーは「答えを知っている人」でも「正解を教えてくれる人」でもない。
— shiho@こころが元気になる場所 (@emotion_lab) 2019年12月24日
若手のうちはつい答えを探しがちだけど、クライエントが抱えてきた生きづらさ、苦しさの重みを同じように受け取り、「何と言ったらいいかわからない」と正直に言えたときこそ、カウンセラーとして成長した瞬間だと思う。
「問題を解決してほしい」という訴えの背景には、時に、「問題を解決できない自分に対する劣等感、恥、不安」といった感情が絡みついている。
クライエントが解決を望むのは、その劣等感や恥から解放されたいと思っているからでもあるのだ。
そんなとき、解決策を提示する以上に、大切なことがある。
それは、「その問題の大きさに思わず言葉に詰まる」という態度を、正直に見せることだ。
クライエントは「こんな問題を解決できないのは自分だけだ」と思っている。それでも恥を忍んで、専門家の元へ相談に来る。
だから、「解決策を提示する」ことも、もちろん、恥を忍んで来談したクライエントの気持ちに答える態度だ。
だが、自分が抱えている問題の大きさを受け止め、言葉に詰まる専門家を見たとき、クライエントの「この問題を解決できないのは、自分だけだ」という恥や不安、孤立感は変化する。
「自分だけではないのかもしれない。この問題の解決は誰にとっても、難しいことなのかもしれない」
「自分が無力なのではなかったのかもしれない」
そんなふうにクライエントが思えることも、私はとても大切なことだと思っている。
クライエントの話を聞き取り、性急に回答を求めるクライエントに対して、聞き取ったことの重みを大きな息とともに吐き出して、
「何と言ったらいいのか・・・うまく言葉になりません」
「私自身もそれに対してどんなことができたか、正直、よくわかりません」
と、カウンセラーが言えたなら、それは恥と孤立感の中で闘ってきたクライエントへの最大の賛辞になると思う。
無理に、重いものを軽くする必要はない。
無理に、難しいことを簡単にする必要もない。
無理に、苦しみを楽にしようとするのもお門違いだ。
重いものは重い。難しいものは難しい。苦しいものは苦しいのだから。
カウンセラーが「問題解決屋」であることを諦めたときに、クライエントの中に、
「専門家ですら言葉に詰まることなのか」
「そんな大きな問題を、自分はたった一人で解決しようとしてきたんだな」
という、自分自身に対する新しい見方が生まれる。
「万能な専門家であることを諦めること」。
これもカウンセラーの立派な仕事だと思う。