カウンセリングをしていると、クライエントからいろんな質問を投げかけられる。
「感受性が強くていいことってありますか?」
最近、複数のクライエントから立て続けにこう尋ねられた。
肩を小さくすぼめながら、苦笑しながら、また時には涙ながらに発せられたこの問いを、折に触れて思い出している。
感受性の強い人は思いやりがあり、他者の身に起こったことを自分に起こったことのように考えられるので、相手が求めているサポートを提供することができる。芸術面でも豊かな才能があり、何かを生み出すことが上手だったり、センスの良さや文才に恵まれていることも多い。
けれど、クライエントが聞きたいのは、こんな答えではないような気もする。
感受性の強さ故に、他者の言動に心をかき乱されて、心身の不調に悩み、自分は人とは違うという疎外感に苛まれる。
こうした生きづらさを抱えながら生きてきた方にとって、感受性の強さは諸刃の剣のように感じられているし、感受性の強さを、自分の弱点、あるいは欠点だと感じて、恥じていることさえある。
だから、「感受性が強くていいことってありますか?」という問いかけは、時に、私の耳にこんなふうに聞こえてくる。
「感受性が強いのは欠点ですか?」
「感受性が強いことは恥ずかしいことですか?」
「感受性が強い私のままでいいのでしょうか?」
「感受性が強い私にも居場所はありますか?」
存在そのものが差し出されているかのような、切実な問いかけに心を揺さぶられ、私の答えにも熱がこもり、口から出る言葉は「その人の感受性の強さ」に対してではなく、「その人自身」に対して投げかけるものになる。
「そういう○○さんのことを、私はすごく素敵だと思っています」
「そういう○○さんのこと、私は好きです」
「こういう形(カウンセリング)ではありますが、○○さんに出会えてよかったと思っています」
あなたがこの世界に生きているということを、私は知っています。
あなたの言葉は、私の心の深いところへ届いています。
そんなことを伝えたい気持ちになる。
答えになっているのかわからないけれど、こういう気持ちを引き出してもらえる大切な質問をしてもらっていたんだな、とこれを書きながら思えた。