洋画を見ていると、恥や恐怖の感情に対しては、誇りや怒りを喚起して、恥や恐怖の感情を打ち消す、というやり方がよく見られます。
恥じて引きこもってしまいそうになるときにはプライドを、恐怖で尻込みするようなときには怒りを、それぞれ引き出すことによって、いつも大事な決断や選択の場面で、知らず知らずのうちに、自分を脅かしていた恥や恐怖から脱することができます。
しかし、日本の社会では、恥に対しての誇りや恐怖に対する怒りは、なかなか機能しえないのが現実かもしれません。
欧米では、人前で自分の子どものことを「perfect children」と言ってもおかしなことではありませんが、日本でこんなことを言うと、「親バカ」などと言われ、眉をひそめるような反応が返ってきそうです。
誇りは、謙遜の前にその力を奪われています。
そのため、恥の感情を日本人は維持によって防衛し、乗り越えてきたという指摘もあります。
とはいえ、『いきの構造』で有名な哲学者の九鬼周造は、日本人の情緒の系譜を図示し、その中で、恥の対極に誇りを据えていました。
戦国時代、恥の対極には誇りがあったかもしれません。
しかし、戦時下の日本において、恥の対極にあるのは意地だったのかもしれません。
恥の対極に、何が据えられるかは、時代によって少しずつ変化してきているのでしょう。
恥の対極が無関心などという態度にならないために、感情に耐えうる力を、その基盤となる感情の哲学を、編んでいきたいと思っています。