新幹線内殺傷事件から、まもなくひと月が経とうとしています。
加害者側の視点から、そして被害者側の視点から、さまざまなことを考えさせられる事件でした。
まず、「容疑者には、精神科既往歴があった。」と当たり前のように報道されるこの言葉には、やはり違和感を覚えました。
確かに、事実かもしれません。でも、それがあたかも犯罪の背景であり、犯罪の理由であるかのように報道されるのはおかしいと感じます。
むしろ、加害者となった人たちが受けてきた差別や偏見が、彼らを孤独にし、自己嫌悪と怒りと屈辱でいっぱいになった心が、社会への復讐としての犯行に及んでいるように思えてなりません。
犯罪の理由は、精神疾患ではなく、孤立と怒り、そして屈辱だと思います。
もちろん、被害に遭われた方、命を奪われた方、そのご家族の気持ちを思うと言葉もありません。自分の家族が同じような目に遭ったら、加害者にどんな事情があろうとも極刑を望むでしょう。
ただ、こうした事件の加害者たちを「人でなし」扱いし、社会から排除し続けるだけでは、同じようなことが繰り返されるだけのような気がします。
新幹線内での殺傷事件が起きたのは、6月9日。10年前の6月8日は、奇しくも秋葉原で7名もの犠牲者を出した殺傷事件が起こった日でした。
この10年で、社会は一体何を変えられたのか。
今回の事件から、そんな問いを突きつけられた気持ちです。
加害者の男性は、「自分には生きる価値がない」「死にたい」と話していたとの報道がありました。彼の犯行に同情の余地はないですが、自分がいかに大きな孤独を抱えているか、誰かにわかってほしいというサインを発し続けていたのかもしれません。
加害者のご家族を批判する声も聞かれますが、精神障害を抱えた身内を、家族だけがサポートしていくには限界があります。医療機関や行政、地域が、当事者と家族を孤立させないことが大切です。
社会が受け皿になり、精神障害への偏見と差別を失くしていくことが、悲しい事件を失くすことへつながっていく。そのためには私たち臨床心理士やカウンセラーが、社会に向けて正しい情報を発信していかなくてはいけないと思います。
そして、この事件の詳細をきいて、この映画のことを思い浮かべた方も少なくないかもしれません。
2015年にアムステルダム発パリ行きの特急列車内で起こったテロ事件が題材となっています。ここでは、犯人に立ち向かった3人の男性がいましたが、全員命を落とすことはありませんでした。
犯罪に果敢に立ち向かう人が生き残れる社会と、そうでない社会。
私たちは後者に生きているということもまた、この事件が私たちに投げかける大きな課題であるように思えてなりません。