emotion laboratory

感情は人生の羅針盤

responsibility “応える”ちから

人として生きる上で、対人援助という仕事に従事する上で、個人的に大切にしたいことをたくさん言葉にしてくださっているのが、哲学者の鷲田清一氏です。

迷ったとき、悩んだとき、鷲田氏の著作を紐解くと、「まぁまぁ、ちょっと一息つきなさいよ」と、私の居場所を整えて、お茶を出してもらえるような、不思議な感覚がそこにあります。

例えば、今日は responsibility という言葉について考えてみたいと思います。

心理療法家のあいだでは、クライエントの病理に「巻き込まれる」「動かされる」という表現があります。こうした表現は、ややネガティブな意味合いを帯び、「あいつは巻き込まれている」などと批判的に用いられたり、「自分はこのケースに巻き込まれていると思います」というときは、どこかセラピストのほうにも自分の至らなさを言語化しているという意識があります。

しかし、この言葉の意味を体験として知らないまま、「巻き込まれる」「動かされる」のは未熟さの表れなのだと勘違いをしている場合も、少なくないようです。

そこで思うのは、responsibility です。

日本語では、責任と訳されがちな言葉ですが、この言葉の成り立ちをよくよく見てみると、response + ability ということで、“応えるちから”と言ってもよいのです。

この点について、鷲田氏は次のように書いています。

“他者の声やささやかな訴えに対して「何か私にできますか」とすぐに応じる用意があること。他者からの呼びかけに応じて考え、そして動くほうが、逆説的にひとを受け身でなくす。つまり他者に認められる、他者の意識のあて先に自分がなるという感覚が、ひとを突き動かす”

心理療法家は、フロイトの中立性に忠実であろうとすることも多いです。しかし、こうした姿勢が、知識と自分の体験とを照らし合わせた中から生まれているのかは、甚だ疑問です。「フロイト先生に忠実である自分」という心理療法家の自己愛を満たすことが優先になり、目の前のクライエントや、セラピーの場で起こっているhere and now な現象に目を向けることがおろそかになってはいけないと感じます。

responsibility とは、応えるちからです。

ただ、これは「言われたことに何でも応じる」ような何でも屋を指すわけではもちろんありません。

クライエントの心の痛みに、寄り添い、同じ場所から世界を眺めて、ともに感じる中で、セラピストが涙を流したり、クライエントの背中をさすってあげたいと感じることは、「巻き込まれた」未熟な態度ではなく、専門家になっても忘れてはいけない人間としてごく自然な心のありようであるとともに、目の前のクライエントに対するrespnosiibility なのです。

 

鷲田清一氏インタビュー「“命の世話”と向き合う」

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-498.htm