こんなblogを書いている私の周りが、感情擁護派ばかりかと言えば、決してそのようなことはなく、身近なところに、感情を回避したり、厄介者扱いしたり、体験から閉め出している人はたくさんいます。
(○○擁護派、という言い方は、松岡正剛さんのこちらの作品から)
むしろ強い向かい風を感じるからこそ、感情を擁護するための言葉を紡ぐ必要があるのかもしれません。
そうした相手とは前提が違いすぎて、話し合うことが難しく感じられることがあります。
例えば、職場である問題が起こったとき、効率を優先したり再発防止を考えたりする場合、何が問題だったのか・では同じ問題が起こらないためにどうするかを考えるのはもちろん大切なことです。
しかし、そうした対処だけでは、その問題にかかわった人たちの“気持ちや感情”は二の次にされたり、ひどい場合は見向きもされないことさえあります。
ところで、進化の過程においては、必要のないものが廃れ、必要なものが残っていきます。
例えば、ヒトの肋骨の下から数えて2本は、背骨から出てはいるものの、他の肋骨のように胸骨につながってはいません。この2本は退化しつつあり、将来的にはなくなるかもしれないと考えることができます。
必要のないものは廃れ、必要なものが残る。
そんなシンプルな進化のプロセスを考えても、感情は必要があるからこそ、人間に残ったものだと言えます。
感情には、出来事を記憶として刻印するという役割があります。
出来事がスタンプ、感情が朱肉といったイメージを持っていただけるとよいかもしれませんが、ある出来事についての記憶とは、その出来事そのものではなく、感情によって色づけされた出来事の表象です。
刻印の形は変わらなくても、その色が変わるだけで、つらい記憶が愛された記憶に変わることさえあります。
失敗したプレゼンテーションは恥という感情に色づけられ、その色がくっきり残ることによって、「次はこの点に気をつけなきゃ」と同じことを繰り返さないようにすることができます。
反対に、感情による色づけの少ない記憶は、薄れていきやすいと言えるかもしれません。
例えば、退屈な授業よりも、面白い授業のほうが記憶に残りやすいというのも、非常に単純な例でしょう。
つまり、出来事にかかわる気持ちや感情は、出来事から切り離してしまうのではなく、むしろそれに注意を払い、それが何を教えてくれようとしているのか、吟味してみるとよいのではないかと思うのです。
感情は本当に、私たちにいろいろなことを教えてくれます。
思考や時間よりもずっとずっと先に、答えを知っていたのが感情だったということは決してめずらしいことではありません。
感情を抑えたり、切り離したり、閉め出したりするのではなく、感情はどうしたってそこにあるものなのだからと割り切って、感情とともにあることを考えるほうが、実際には現実的で効率的なのですが、この点からすでに説明が必要なほど、感情の性質は大きく誤解されてしまっているようです。
感情に注意を払うことの大切さ。
感情が私たちに教えてくれることの意味に気づく力。
そんなことについても、今後もたくさんの素材を通じて、お伝えしていきたいと思っています。