emotion laboratory

感情は人生の羅針盤

幻滅でも自己陶酔でもない、理念を体現する道。

違和感から、多くのことが生まれる。

と、私は思っています。

今回は、現在私が感じている違和感について、書いてみたいと思います。

それは、ある事柄について主張すればするほど、そこに辿り着けないという矛盾です。

もっとはっきり言えば、理念を持っていても、それを行動に移している人は実に少ないということです。

理念、というと何だか、上を見上げるような感じがします。

しかし、行動は地に足がついていなければできません。

上を見ながら歩くというのは、とても難しいことです。

そのせいか、理念を語る人の多くは、行動としての歩みがなかなか前に進まないのです。前に進むことを忘れてしまったかのように思える人もいます。

もちろん、自分を省みるためにもこの文章を書いているのですが、私自身も現在、自分が持つ理念をどのように体現していけるのか、そのために今、自分に足りないものは何なのかと考えています。

どのように体現していくのか。

ひとつは、常に優しくあたたかい存在であるということです。

そして、自分がそうあるだけではなく、そうあろうとしてくれる仲間を作りたいと思っています。

思いやりやあたたかさは、自分に対して発せられた言葉や思いや行動に応えることーresponseするという意味での責任ーresponsibilityを果たす力の源です。

理念が行動に結びつかない原因は、もしかすると、他者の存在や他者との関係に対する意識の欠如から来ているのかもしれません。

理念と自己との関係に陶酔していると、湖面に映った自分の魅力に取りつかれて命を落としたナルキッソスのように、理念を語る自分に恍惚として、周りのことなど目に入らなくなってしまうのではないでしょうか。

自分だけの世界に生きることは、確かに心地いいことです。

しかし、そこから出て初めて理念に命が吹き込まれ、他者からのresponseによって初めて、理念は輪郭と肉体を得るのではないでしょうか。

目の前にいる人が笑ってくれる。

自分の言葉にうなずいてくれる。

理念などと大げさなことを言わなくても、ただそれだけで、人は自分という存在をもっともっとこの世界に広げていこうと思えるようになるのかもしれません。

赤ちゃんの時には、自分が笑うだけで世界が笑い、自分が泣けば世界が心配してくれます。

そんな錯覚の時代から、人は少しずつ脱し、幻滅を生き抜く。

北山修氏はそんなテーマをよく取り扱っていらっしゃいます。

しかし、幻滅を生き抜けずに、自己陶酔の世界を生き続ける人もまた、多いようです。

幻滅論 [増補版]

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錯覚と脱錯覚―ウィニコットの臨床感覚

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幻滅でも自己陶酔でもない。

もっともっと生産的で、他者に開かれた、明るい道は存在しないのでしょうか。

自己陶酔的にではなく、この問題を考え続けるために、語ることや表現することをおろそかにしないでいたいと思います。