間違える、失敗する、批判される。
こんなことを「好き」と言えるひとは、とても少ないと思う。
私自身も、間違えてしまったことは蒸し返されたくないし、失敗は早く忘れたいし、批判には耳を塞ぎたいたちだ。
失敗は悪いこと。
間違えるのは恥ずかしいこと。
批判されるのはかっこ悪いこと。
そんな思いが、どこかにある。だから、いろんなことをうまくやろうとして、勉強したり、教えを乞うたり、慎重になったり、挑戦するのをやめたり、してしまう。
悪いことばかりではないけれど、なんとなく不全感が残るのは事実。
そんなとき、私はよく父親のことを思い出す。
父は典型的な亭主関白で、怖いものの代表例としてかつて、地震カミナリ火事オヤジと言われたような、怖いオヤジ、だった。
兄弟げんかをすれば叩かれ、野球のナイターがある日には絶対にチャンネルを譲ってくれなかった。どんなに泣いてたのんでも台風の日に外で飼っている犬を玄関に入れてくれなかったし、家族旅行の途中、車で道に迷ったときはイライラして家族に当たり散らした。
そんな父の姿を思い起こすと、失敗を怖がる自分のことが、なんだか少しだけバカらしく思えてくる。全部が全部とは言わないが、彼はある意味、私にとっては、全力で間違ってくれていた存在なのだ。
子どもの前で、正しくあろうとか、間違えないようになんて、これっぽっちも(本人なりには考えていたのかもしれないが)気にしていないように見えた。
少なくとも表向きには、自分のあり方にまったく迷っていなかった、ように見える。
だからこそ、こちらも全力でぶつかって、泣いて、わめいて、憎んで、嫌った。
そんな父のもとで育った結果、子どもたちは、みな早々に独立して、会社の寮に入ったり、賃貸マンションを借りて、自分の城を持った。
父が全力で間違ってくれたおかげで、ハングリー精神や根性が育ったのだと思う。
結果オーライ、とも言えるかもしれないけれど、あんなに憎たらしかった父の姿に、今更ながら私は救われることがある。
不思議と、何とかなるかも、と、失敗や間違いを恐れる気持ちが軽くなるのだ。
立派なことや勇敢なことよりも、もしかすると、ひとの弱さや愚かさのほうが、心に響き、恐怖や痛みを和らげるのかもしれない。