emotion laboratory

感情は人生の羅針盤

自他の境目は、近づくほどに際立つ。

内田氏は、読み手のことを意識した「私たち」という主語をよく用いる。

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

これは、この本の冒頭で内田氏自身が、「宛先」に私が含まれていないような本は、たぶん読む必要のない本である、と言い切っていることと関連するのかもしれない。

だけど、あるとき、私は、この「私たち」という主語にどうしても引っかかってしまったことがあった。なんだか、「私たち」の中に私を含めてほしくないような気分になったのだ。

その違和感を掘り下げていくことも大切だったかもしれない。

でも、私はそのとき、こんなことを思っていた。

「私たち」という主語がここで使われていなくても、私はこの文章にひっかかりを覚えただろうか、と。

他人事か、自分事か、では、おそらく感じ方が異なる。

内田氏の狙いにまんまとはまった、というわけではないけれど、私はそのとき、文章と自分のあいだの距離が、思っていた以上に近づいていたことに気づかされ、その現象を興味深く感じる気持ちが、違和感の追求に勝ってしまったのである。

石井ゆかりさんは、禅の「喫茶去」ということばを紹介するなかで、こんなふうに書いている。

誰かと出会うときはいつも、自分でも気づかなかった自分の一部を引っ張り出されてしまう。未熟さや弱さに気づかされたり、時には、長所を見つけたりもする。自分のことが本当にわかりるのは、「誰か」がそこにいるときだ。 

禅語

禅語

 

誰かといるときに、普段意識しなかった自分に出会う。

内田氏が、私、と書くよりも、私たちと書いたことが、他者を意識させる結果になったというのが、なんだかとても面白かった。

境目というのは、遠くにいるときにはわからないもので、近くなればなるほど、別々だということがわかるものなのかもしれない。