Talk to Your Heart

emotions are colors of our lives

「感受性が強くていいことってありますか?」という質問から考えたこと。

カウンセリングをしていると、クライエントからいろんな質問を投げかけられる。

「感受性が強くていいことってありますか?」

最近、複数のクライエントから立て続けにこう尋ねられた。

肩を小さくすぼめながら、苦笑しながら、また時には涙ながらに発せられたこの問いを、折に触れて思い出している。

感受性の強い人は思いやりがあり、他者の身に起こったことを自分に起こったことのように考えられるので、相手が求めているサポートを提供することができる。芸術面でも豊かな才能があり、何かを生み出すことが上手だったり、センスの良さや文才に恵まれていることも多い。

けれど、クライエントが聞きたいのは、こんな答えではないような気もする。

感受性の強さ故に、他者の言動に心をかき乱されて、心身の不調に悩み、自分は人とは違うという疎外感に苛まれる。

こうした生きづらさを抱えながら生きてきた方にとって、感受性の強さは諸刃の剣のように感じられているし、感受性の強さを、自分の弱点、あるいは欠点だと感じて、恥じていることさえある。

だから、「感受性が強くていいことってありますか?」という問いかけは、時に、私の耳にこんなふうに聞こえてくる。

「感受性が強いのは欠点ですか?」

「感受性が強いことは恥ずかしいことですか?」

「感受性が強い私のままでいいのでしょうか?」

「感受性が強い私にも居場所はありますか?」

存在そのものが差し出されているかのような、切実な問いかけに心を揺さぶられ、私の答えにも熱がこもり、口から出る言葉は「その人の感受性の強さ」に対してではなく、「その人自身」に対して投げかけるものになる。

「そういう○○さんのことを、私はすごく素敵だと思っています」

「そういう○○さんのこと、私は好きです」

「こういう形(カウンセリング)ではありますが、○○さんに出会えてよかったと思っています」

あなたがこの世界に生きているということを、私は知っています。

あなたの言葉は、私の心の深いところへ届いています。

そんなことを伝えたい気持ちになる。

答えになっているのかわからないけれど、こういう気持ちを引き出してもらえる大切な質問をしてもらっていたんだな、とこれを書きながら思えた。

相手の魅力を見つけるのも、カウンセラーの仕事。

カウンセラーの仕事、あるいはカウンセリングと聞くと、人の悩みに寄り添う、話を聞くことで楽になってもらう・気づきを促進する、あるいは、精神疾患を抱える人の治療をするといったイメージが強いかもしれません。

でも、カウンセラーとして、実際にやっていることを思い浮かべてみると、決してそれだけではないなと感じます。

例えば、「話だけを聞いているのではなく、ノンバーバル・コミュニケーションにも注意を払っている」し、ちょっと意外なところでは「相手の魅力に気づいて、それを伝える」ということもやっています。

後者の「相手の魅力に気づいて、それを伝える」というのは、広くはロジャースの言った「肯定」に当たると思います。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方には、すでにバレてしまっていることかもしれませんが、私はけっこうオタク気質です。

臨床心理学に関することでも、有名人でも、音楽や小説でも、ハマるととことん熱中し、友達の集まりなどでも、それについて熱を込めて話してしまいます。自覚もある一方で、そういうのって、一人で盛り上がってるだけで、空気読めないって思われてないかな、と気にしていた部分でもありました。

ですが、あるとき、私がいつものように好きなアーティストの話を熱っぽく話していたときに、付き合いの長い先輩がニコニコ笑いながら、「ほんといい顔して話すよね」と言ってくれたのです。

彼は、私の話の内容だけではなく、話している私の表情やテンション、エネルギーを楽しんでくれて(ノンバーバルへの注目)、さらにそれを「いいね」と言ってくれたのです(相手の魅力に気づいて、それを伝える)。

彼は信頼する先輩でもあったので、私の中ではこれ以降、好きなことを夢中になって話すことに、ためらいや自己嫌悪を感じなくなったし、話した後の一人反省会でも、そのことが議題に上がることはなくなりました。

 

今、カウンセリングをやっていても、折に触れて、この体験を思い出します。

こんなふうに書くと、カウンセラーの手の内を明かしてるようですが、カウンセラーは人がどうしたら変わるか、どうしたら悩みから自由になれるかという心理学の理論に基づいて、こうしたことをある意味で意図的に行う人たちということができるからです。

あのとき、自分が感じた、くすぐったさにも似たうれしさや自信、そんなふうに思ってもらえるんだという新鮮な驚きを、自分のクライエントさんにも体験してもらえていたらいいなと思います。

心理職養成の大学院教育あれこれ:SVシステムについて

自分が若手ではなく、もはや中堅と呼ばれる立場であることを、学会で顔なじみの先生方からつっこまれ、「中堅」などというぶかぶかの上着に袖を通してみたのは昨年のこと。心理臨床の世界では、いわゆる「若手」や「初学者」は臨床経験5年目くらいの臨床家を指すのが一般的である。

私は九州で臨床家としての「若手」の時期を過ごし、「中堅」となってからは都内で臨床家の育成に携わる仕事をしているが、現在かかわっている学生の教育システムと、自分が経験したそれとの違いをたびたび感じる。

場所も時代の違うので、当然といえば当然だが、いろいろと興味深い違いもあるので、今回はそのことについて書いてみたい。

①SVorの選び方と料金

都内の大学では、ゼミなどを担当する教員がSVor役も担っているところが多い。Svorとゼミの教員が完全に一致しているところもあるし、ゼミの指導教員以外の教員がSvorとなるというシステムのところもある。この場合、院生は無料でSVを受けることができるが、必ずしも希望通りの教員から指導を受けられるわけではない。中には、非常勤SVorを雇い、多重関係に陥ることを防ぐ大学もある。この場合もSVは無料で受けられるが、非常勤講師は曜日ごとに割り振られているため、実習などで特定の曜日に大学に来られない院生は、そのSVorの指導を受ける機会が得られない。

私がトレーニングを受けた大学院では、基本的にSVは外部の専門家に委託し、院生が自分でお金を払ってSVを受けに行くというシステムだった。大学の相談センターに「スーパーヴァイザー名簿」が置いてあり、院生はケースを担当したら、その名簿の中から自分で SVorになってもらいたい先生を選び、自分でSVの依頼をするのだ。

その名簿は(おそらく)修了生や非常勤講師の先生方で構成され、私の場合は、集中講義にも来てくださっていたフォーカシング指向の先生にお願いをした。こちらは顔を知っているとはいえ、面識はほぼゼロと言ってもいい状態でSVの依頼メールを出すというのは、ハードルが高かったけれど、目上の人へ出すメールの書き方を学ぶ良い機会になったし、大学院修了後に自分でSVをお願いする免疫も、このときつけることができたように思う。

もちろん、依頼した先生がご多忙で断られることもあった。しかし、その場合もご丁寧にお手紙をくださった先生がいらした。そうした先輩方の態度に触れたことも、私がこの職業に失望せずに済んでいるひとつの理由になっている。

料金はピンキリで、精神分析のSVを受けていた友人は私の3倍くらいの額をSVに投資していた。金銭的な理由でSVorからの指導を断念した人もきっといたことだろう。

都内の学生の経済状況を見ていると、どちらがいいとは一概に言えないけれど、大学教員の多忙さを考えても、SVを外部委託にするという選択肢はもっと各大学院で検討されても良いことのような気がする。

臨床心理士、あるいは公認心理師を目指す方たちには、まずは身の丈にあったSVを受けたらいいと言いたい。有名な先生のSVがあなたを優秀な心理職にしてくれるわけではないし、学びへの出費で家計が火の車になっては元も子もないわけで、経済的な安全感を持ちながら学ぶことが大切だとおもう。

 

余談:文明の機器を活用したスーパーヴィジョン

ここからは余談だが、上京する直前、私は東京在住の先生からSkypeでSVを受けていた。料金は銀行振込である。SVもカウンセリングも、対面にこだわる時代ではなくなった。この先生のSVからはとても多くを学んだし、SVは対面でなければ質が落ちるという性質のものではないというのが、経験則からくる感想である。物理的なハンデを超えて、若手が経験ある臨床家から学べるシステムの活用は必須であると思う。

若手時代に受けたSV(スーパーヴィジョン)と、臨床家として生き残ることについて。

臨床心理学専攻の修士2年だった頃。

あるゼミが年に1回主催する合宿形式の事例検討会で、事例を出してみないかと先輩から声をかけられた。

スーパーヴァイザーは、九州在住の著名な精神科医、K先生で、この年1回の事例検討会は、その先生の名前をとってKカンファと呼ばれていた。

日頃から尊敬する先輩からの声かけであったことと、こんな機会は滅多にないという思いと、生来のミーハー気質から、さほど逡巡もせず引き受けた。

臨床心理士を目指す若手の方には、こうした機会があれば是非オススメしたい。著名な臨床家に自分のケースを検討してもらう機会は、余計な知恵や防衛を身につける前の、早いうちがいいと個人的には思う。)

K先生は、検討会の間中ずっとピスタチオを食べている、座り姿のまあるいおじいちゃんという雰囲気だったが、何と無く得体の知れない、つかみどころのない、宇宙みたいな存在感を放っていた。

事例の序盤には、ボディブローのようにじわじわ効いてくる発言もいくつかあったと思う。例えば、

「距離を取る、とかいうやり方は、僕は好かんね。クライエントがやる気なら、一緒にトレーニングする」

と、言われたのを覚えている。これはおそらく、自信のなさから、クライエントのためではなく、私のために距離を取ったというあり方をたしなめられたのだと思うのだけど、当時の私はそこまで考えることもできず、大御所に「そのやり方は好かん」と言われて半分ビビりながら、平静を保つために、その言葉を受け流していたような気がする。

しかし、終盤になると、K先生がポツリと言った。

「あなたは何にもしてないようだけど、この人は良くなってきている感じがするね」

私自身にも、一体何ができているだろうと思いがあったので、言葉の前半部分を嫌味とも批判とも受け取らず、そう思います、と思わず笑った。言葉の後半部分、特に「良くなってきている」と大御所からの太鼓判は、私の緊張を一気にほぐしてくれた。

そのあと、K先生は女性の臨床家と、男性の臨床家のあり方の違いを話してくれた。能動性と受動性それぞれの持つ力のことや、子育てを終えた後の女性は、男性がその間みっちり行なった鍛錬を、あっさり追い越すセンスを身につけて帰ってくるんだよなぁ、みたいなことをお話しされたと思う。

そして、私がその面接を次のセラピストへ引き継ぐにあたり、クライエントに伝えたいと思っていることを話すと、

「いいんじゃない。この人、そんなふうに言ってもらったことないだろうからねぇ」

と、K先生は座り姿と同じくらいまあるい声で仰った。

これが、事例検討会というまな板の上の鯉状態を生き抜いた私への優しさだったのか、本当に思ってくださったことだったのかは、K先生のみぞ知るところだ。

ただ、こんなふうにK先生がカンファを締めくくってくださったことが、私が10年間臨床を続けてこれた理由のひとつであると思うし、このK先生のあり方から、成長や治癒の最後の最後の責任と主導権は、スーパーヴァイジーの側、あるいはクライエントの側にあるのだということを教えてもらった。

ここで、若手をこてんぱんにやり込めて、人格までも否定するようなスーパーヴァイザーに当たっていたら、一握りの自信すら打ち捨てられ、私は、自分のこともクライエントのことも信じることができない、理論というお題目のみを盲目に追従する臨床家になっていたかも知れない。

私自身も学生を指導する立場になったここ数年、折に触れ、このK先生のカンファでの体験を思い出す。最後の最後で、スーパーヴァイザーがセラピストにならず、セラピストであるスーパーヴァイジーにケースの責任と主導権を返してくれた。

そんなスーパーヴァイザーに私もなりたいとおもう。

夢見る力を育むという対人援助のあり方:コーチング理論から学ぶこと

(最初に:はてなスターやコメントをなぜか返すことができない事態になっています。

ゆずりはさん、すみません。コメントありがたく拝見しています。自己一致の感覚、自分が自分であるという感覚、いつも深いところで理解してくださって、ありがとうございます。)

 

私自身は臨床心理士ですが、心理学を通じて、さまざまな人たちと関わったり、その人たちが発信している情報を目にすると、臨床心理士よりよっぽど、世の中に広く影響を与える形で、心理学の知識を発信しているなぁと思うことがあります。

(そうではないことも、もちろんありますし、臨床心理士が間違った情報を流布している場合もあるのですが)

例えば、コーチング理論からも学ぶことが多いです。

コーチングを生業にするコーチたちは、脳が持つ力を効率的に使うことを重視しています。

これは「引き寄せの法則」などとも共通するのですが、まず、とにかく夢や目標を生き生きと描くこと。「そこへどうやって到達するか」という手段よりも先に、「この夢が叶った状態の自分」というゴールを先に思い描き、その夢が叶ったつもりで行動する。

すると、脳が騙されて、その夢や目標の成就に必要な情報を収集するようになり、夢が現実味を帯びてくる。

簡略化して書きすぎて、その道の方からご批判があるかもしれませんが、ざっくりいうと、このような考え方です。

確かに、夢を叶えた人たちの多くは、「どうやっていくかというビジョンなんて持っていなかった。ただ、絶対にそうなるんだという思いだけがあった」とインタビューなどで答えています。

現実を生きることに一生懸命になるあまりに、私たちは「壮大な夢」をのびのびと自由に語ったり、そうなった自分を体験したりする空想の時間を、無駄なこと、意味のないこととして片付けがちです。

テレビの前でアイドルになりきって歌う子どもに、「勉強しなさい!」と現実を突きつけるのは、親御さんのごくありふれた対応ですし、大人になればなるほど、夢を描く・語るなどというのは、気恥ずかしいと思ってしまいがちです。

しかし、夢を思い描く力は、日常に収まるためにキュッと萎縮してしまっている心と身体を自由にしてくれます。

夢について話すとき、人は皆生き生きとします。その状態になることが、まさにとても大切で、自分を取り戻すような瞬間になるのです。

そうはいっても、自分の夢なんてちっぽけで・・・と思う人もいるかもしれません。

大きい小さいは問題ではないのです。

その人を生き生きと笑顔にする夢について話し、それをイメージして、夢が叶ったらどんなに素晴らしいかを心と身体でしっかりと体験する。

そこで起こる精神的、身体的変化は、必ず私たちを前向きで、打たれ強い状態に導いてくれます。夢について語るとき、私たちは確実にそちらの方向へ向かって、舵を切っているのです。

臨床心理士も、こうした夢に向かう力を育むことによる対人援助のあり方を、もっともっと取り入れていってもいいなぁと思います。

本音と建て前の境界線:本当の自分、自己一致について

心理療法やカウンセリングを学んで実践していると、「本当の自分」や「自己一致」という言葉に出会うことがある。

クライエントからも「これが本当の自分なんだ」という言葉が出ることがあるし、自己一致は来談者中心療法の創始者カール・ロジャースが提唱した、人格変容の3条件の一つであり、カウンセラーが自己一致していることは、クライエントに変化が起こるための必要十分条件と考えられている。

ただ、一方で、「本当の自分」を追い求めるあまりに、自分という人間の対する捉え方が一面的になったり、自分という人間の複雑さを抱えきれなくなることも、あるような気がする。

自分という人間は、決して、一つの出来事や一つの感情、一つの関係性の中にだけ存在するものではない。さまざまな場面で、その場面でしか見せない顔がある。

そんな有り様こそ、人間の真理だとおもう。

自己一致ということを考えるとき、私の頭に浮かんでくるのは、映画「歩いても歩いても」のなかで、樹木希林さんが演じる母親のことだ。


映画「歩いても 歩いても」予告編

この母親は、長男を事故で亡くしている。長男は、海で溺れた子どもを助けようとして、亡くなった。

そして、この母は、長男が助けた子ども(もう成人している)が、命日に線香を上げに来るのを歓迎する。毎年毎年、笑顔でもてなし、「またきてちょうだいね」と言う。

次男から、「そろそろいいんじゃない」「呼ぶのやめようよ」「つらそうじゃないか、俺たちに会うの」と咎められると、彼女はすっと冷たい顔になり、「だから呼ぶのよ」と言うのだ。

長男の命を奪った憎い相手に、年に1度くらいつらい思いをさせたっていいじゃないか。

この母親に、私はとてつもなく自己一致した人間の姿を見る。

本音と建前の境界線を、心の中にしっかりと引き、その両方を日々生きている。

本当の自分、自己一致した自分は、きっとそういうふうに、矛盾を抱え込んだ多様な顔を持っていて、どこか人をぞっとさせるような奥深さ、底の見えなさを感じさせるものなのだと思う。

「弱さ」に歩み寄る:女性からは見えづらい男性の「弱さ」

男性は、恥を怒りで覆い隠す。

女性は、怒りを悲しみで覆い隠す。

 

二次感情について説明するとき、こんな例を出すことがあります。

個人の感情の感じ方や表し方には、社会や家庭の文化が個人に求める性役割が影響を及ぼしているのです。

これを聞いた女性からの反応として多いのは、「男性の方がさまざまな感情を覆い隠さなくてはいけなくて大変そうだ」という意見です。

確かに、そうしたイメージは私にもありましたが、自分が生きてきた性別ではないためか、男性の抱える弱さに思いを馳せるのは難しいことでした。

しかし、こちらの本では、男性の「弱さ」が女性にもとてもわかりやすいものとして描き出されており、女性にも男性にもおすすめしたいと思いました。

「男の弱さとは、自らの弱さを認められない、というややこしい弱さなのではないか」(本文より)

 第二次性徴に伴う身体の変化に対して覚える戸惑い。

自分の性別に対する嫌悪感。

「助けてほしい」と言えない弱さ。

求められる「男らしさ」が苦しい。

誰からも愛されない自分に対するとめどない不安と恥。

 

これらは女性とも共通するものです。

ただ、#MeToo運動にも見られるように、女性はこれらの苦しみを他の女性たちと分かち合い、互いに励ましと癒しを与え合い、声を上げます。

しかし、男性は、自らの弱さを自分の内側に抱え込むことで、どんどん孤独に陥ってしまいます。

「自分の弱さをまっすぐに見つめること、そんなとても単純で素朴なことがどうして僕らにはできないのだろうか」(本文より)

 

航空機のパイロットの業務前の飲酒の問題や、公務員による覚醒剤使用がニュースになる中、その背景には、男性が抱え込んで、どこにもやり場のない孤独があるのではないかと考えずにいられません。

明らかになった問題にではなく、その背景にある要因にこそ、社会は目を凝らさなくてはいけないと思います。

自分への愛情、優しさ、いたわりが必要な理由:ポジティブ感情とwell-being

最近、いろんな企業が、こころに注目し始めているような気がします。

 

大切な人への感謝や愛情を示すことで、身体が温まるというPanasonicの実験動画。


LOVE THERMO 愛してるで暖めよう WarmUpWithLove

 

自己肯定感を高めようという女性へのメッセージを込めたDoveのCM。


ダヴ: リアルビューティー スケッチ | あなたは自分が思うよりもずっと美しい

 

日本の女子高生バージョンも可愛らしくて好きです。


ダヴ:リアルビューティーID|本当の美しさを閉じこめないで

 

こころの健康のためには、1つのネガティブ感情に対して、3〜5つのポジティブ感情が必要だと言われています。

1つの悲しみには、5つの愛情や優しさ、感謝、いたわり、思いやりを。

ポジティブ感情は、ネガティブ感情とは独立して存在し、ネガティブ感情を中和・軽減する働きを持っています。

つらいことに向き合わなければいけないときほど、自分自分への優しさや、他者からもらった愛情によって、向き合う痛みに耐えることができるようになります。

ポジティブな感情を感じることは、決して自分を甘やかすことではなく、よりしっかりと困難に立ち向かう力を与えてくれるのだと思います。